自分はふられた女より、その原因となった男に対して怒りを覚えるらしい。
三月一日 夜 ?
禁域へと足を踏み込みつつある。止まることはできても引き返すことは出来ないし、引き返すつもりもない。ただ怖くてて足がすくむ。それでもにじり寄るように足を進める。
手足が震える。息が荒れる。恐い。恐怖を感じている。
何に対して恐怖を感じるのか。よく考えられない。頭の芯が少し酔いのまわった時のように。
いや、そうではない。考えている自分もいる。ただ何かがよく分からない。
どこかで冷静に自分を見つめている自分を感じる。けれどその自分は俺の行動を支配しない。
ただ見つめるだけ。
冷静に見詰める自分、行動を冷静に起こす自分、怒り狂った自分、嫉妬する自分、怯える自分。さらに多くの自分がいるように様々な感情が入り交じり、それがすべて同時に表面へ出ているようだ。
――ああそうか。一つの考えが浮かび上がる。統一した考えが出来ないんだ。
自分の考えを把握できない、制御できない。
そう、だから何かが……分からない。
いつもと同じように、まだ少し肌寒い朝の空気が心地よい。
二月二十八日 朝 電車
朝の冷えた、さすような空気に慣れた頬が電車の中で暖められ、日曜日のまだ早い時間なので椅子に座ることができる。電車の中はいつもの混雑が嘘のように空いていて、電車の心地よい揺れを感じる余裕がある。
店は開いていない時間なので、昨日のうちに買っておいた焼き菓子の袋を膝の上に乗せて腰を下ろした。
けんかをした次ぎの日曜にお土産を持って謝りに行く。二年ほど前から習慣となった。
謝るのはいつも自分ということに少し情けなさも感じる。悪いのはたいてい彼女だと俺は思っているからだ。
彼女は俺が悪いと思っているかもしれないが。
別に謝るのは嫌いじゃない。彼女の罰の悪そうな顔を見るのは楽しい。
前はそれに加えて眠そうな顔をしていて楽しさが倍だったが、最近は余裕の顔をして朝の挨拶をしてくるのでつまらない。合鍵を持っている特典を一つ取られたようなものだ。
しかし今日は違う。今日はいつもよりさらに一時間早いのだ。今から楽しみで顔がにやける。多分怒るだろう。久しぶりに朝食を作ってやって、不機嫌そうな顔を眺めながらとろう。きっとお菓子を食べながら紅茶を飲むころには、機嫌はなおっているだろう。もともと月曜日けんかした理由なんかどうせ覚えてないんだから。そこで謝ればあの顔が見られるというわけだ。
その後はどうしようか。バイト代が入ったから何か買ってあげよう。欲しいCDがあるとか言っていた。まだ買ってないだろうか。
そうこう考えるうちに降りる駅に着いた。
好きな女をからかって楽しむなんて、俺もかなりガキくさい。
「真実は小説よりも奇なり」先達は上手く物事を言う。
俺の場合「奇」というより「唐突」であったが。
二月二十八日 朝 部屋
おそらくこれほど劇的な振り方はない、という方法で彼女は俺をふってくれた。匹敵するのは、実はわたしあなたの生き別れた妹なの、と言われることだろうか。
最初何をしたら、何を考えたらよいか分からなかった。
認めたくない事実に直面したとき、人は泣くか笑うかだ。と何かに書いてあった。
俺は笑った。何か、よく分からないが、冗談だと思った。
付き合って三年半になる。数ヶ月で恋人を変える友人たちに、二人してからかわれたこともある。
今度の春からは社会人になる。
冗談めかして、実は心臓の鼓動を早めて、金が少し貯まったら指輪を二つ買ってあげる、と言った。ただしドレスはレンタルにしてくれ、と。
彼女は笑いながら、ケチ、と言った。
どうしてこんな事になったのだろう。うまくやっていた、やっていけると思っていた。
連絡をせずに、六日ぶりに逢えたかと思えばこの状況だ。
彼女は背を向け、身じろぎ一つしない。うずくまった背に手を伸ばす。冷たい。
左腕の浸かった湯船の水さえ、生命を感じられない濁った赤色だった。
彼女は死んでいた。
しばらく彼女はひどい女だと思っていた、けれど気づいたときは自己嫌悪に陥っていた。
二月二十八日 夕 部屋
電話を病院にするか警察にするか迷ったが、病院には用がないと思った。素人目にもすでに死んでいる。どうしようもない。――どうして彼女は何も言ってくれなかったんだろう。
警察に電話し、二人して連れて行かれた。何か訊かれたり、喋ったりしたがよくおぼえていない。
おぼえているのは、月曜日けんかをしたと言ったことと、他に何かないのかいと言われたので、わからないと答え、彼女にも聞いてみればいいと言った。彼女のことなのだから彼女に聞けばいい。そう思ったのだ。
そうしたら警官が変な顔をした。そのことくらいだ。
後は……そうだ。彼女は二十七日の午後に息を引き取ったらしい。どうして後1日待てなかったのだろう。次の日の朝には俺がくることが分かってるんだから。俺に会いたくないほどけんかで怒っていたのだろうか?いや、それならけんかした次の日に手首を切るだろう。警察もそういっていたような気がする。わからない。
でも息を引き取るってどういう意味だっけ。うまく頭から意味が出てこない。ああ、死ぬって意味だった。
二十六日……。もっと早く会いに行けばよかった。そうすればこんな事にはならなかったかもしれないのに。
悪酔いの頭の鈍さと気持ち悪さを抱えて、偶然の種を拾った。偶然の種はすぐに芽生え、必然という名の実が生った。
二月二十八日 夜 道
彼女のアパートから駅へと続く道を歩く。彼女の両親への連絡は警察がしてくれた。遺品の整理は両親がやってくれる。正式に婚約もしていない自分が口をだすべきでない。
ただ彼女の部屋にある唯一の時計、ヘルメスの腕時計は壊してきた。制止した空間の中で動いているそれに、強い憎しみを覚えた。
道の両側には広い公園があり、人通りがない。不安を感じ、人が多いところへ行きたいと思った。
昼間は子どもの遊び声が聞こえる道も、車も人も通らない夜は昼の明るさを知っているだけに静かに感じる。
そんな中、路上駐車している暗い色のワゴン車に気づき興味をひかれた。
何をしているんだろうかと。
ほどなくそれは分かった。
ドアがスライドされ、女性らしき人影が転がり出てきた。
車内にいる男が何か言っているのが聞こえ、風の向きのせいか最後の一言が、耳元で囁かれたように聞こえた。
ビデオをばらまくぞ、と。
一連のことに驚きはしたが歩みを止めはしなかった。まだ何があったのか正しく理解していなかったのだ。
ドアが閉まり、車高の低いワゴン車はエンジンをかけ、騒音を撒き散らしながら駅のほうへと走っていった。
まだ座り込んでいる女性に近づくにつれ、泣いていることに気づいた。
数メートルとなったところでこちらに気づき、あとずさる。必死に服の胸元を掻き合わせ、小さく震える。そうして何があったか理解した。
ここで始めて止まった。止まろうと思ったのではない。頭が真っ白になり、気づいたら止まっていた。
目の前の女性に起こったことに対して驚いたのではない。それはそれで驚きだが、同じようなことが死んだ彼女にも起こったのではないかと想像してしまったからだ。何でそんなことを考えたのかわからない。けれども考えてしまった。
上着を脱ぎ、女性の頭上に放り投げる。頭を出すあいだに、俺は横を通り過ぎた。そしてそのまま無視するように歩き去った。
時は運命の選択に満ちている。降りる駅の選択すら含まれて。
二月二十八日 夜 電車
吐き気がする。そんなことあるわけない。
何の根拠もない想像を打ち消そうとする。
バカな話しだ。何でそんなことを考えたんだ。気の迷いだ。証拠も何もない。
けれどどうして彼女は自殺なんかしたんだ?
なにかあったにちがいない。
どうして自分に言ってくれなかった?
言えないようなことだったからだ。
考えれば考えるほど見つけたくない答えが返ってくる。
俺の想像力は貧困だ。女の自殺の理由なんてあんまり出てこない。
受験の失敗。いじめ。親しい人の死。そして犯されて。
まさか世を儚んで、などということはあるまい。そんな女じゃなかった。死にたいほどのことがあったのだろう。それはなんだ。俺に言えないようなことはなんだ。何でも俺に言うというわけではなかったが、一言も言わなかったこともないと思う。いや、ないはずだ。
俺の想像力は貧弱だ。
あいつの自殺の理由なんか一つしか出てこない。
もしそうだったら。
今日あの車に乗っていた男がそうだったら。
あ、いま何か音がした。ガラスのコップにひびが入ったような。それにいつからか、小さくだが耳鳴りがする。
まあどうでもいい。それより人のいるところに行きたい。もうすぐで新宿に着く。この時間でもまだ人はいるだろう。少し恐い。新宿に夜行くのは初めてだ。いつもは池袋だし、こんな遅くはならなかった。第一一人じゃなかった。女連れのほうが危ないかもしれないが気分の問題だ。
やはり池袋まで足を伸ばそうか。慣れた街のほうが落ち着ける気がする。
電車が新宿のホームに滑り込む。腰を上げる。どこでもいい、とにかく早く人のいるところに行きたい。
人のいるところに早く行きたいがために新宿で降りた。賽はすでに投げられていたのかもしれない。しかし自分の手で、無意識にでも、振ったのはここからだったんだろう。
世の中暇人が多い。無意味そうに徘徊する人々を見てそう思った。
二月二十八日 夜 場
新宿は思ったより人が少なかった。昼間の混雑からは想像も付かないほどだ。
それでも、やはりこの時間にしては人が多いのだろうか。時々嬌声が聞こえる。
少しほっとする。
それでもまだ恐かった。いきなり囲まれたり、けんかを売られたりしないだろうか。
自販機に小銭を入れ、緑茶を買う。シャッターが閉じた映画館の入り口に向かう。途中にある、たった三段の階段がやけに高かった。シャッターを背にようやく腰を下ろす。映画館の前は広場になっており、何人かでグループになって歩いていた。こうして見ると、俺みたいに一人でいる奴はいないようだ。
首を垂れ、目をつぶる。
眠っていたのか、ただボーっとしていたのかよく分からない。すぐ近くで女の声がするのに気づ
き、体を震わせて目を覚ます。
一人の女が立っていた。色っぽい服を着ていることにまず気づく。他には誰もいない。
どうやらリンチとかそういった類ではないようで、とりあえず安心した。どうも俺は夜の新宿に偏見を持っているようだ。
「おニいサン。大丈ブ?」
なんか今日初めて人と話した気分だ。しかし見ず知らずの人に、意味も無しに話し掛けるなんて自分はしたことがない。何か理由があるんだろうか。
実は酔っ払いでけんかを売ってきたとか。ナイフを突き付けられて金を脅し取られるとか。
「キ分わるいノ?」
どうやらそうゆうことではないらしい。とりあえず大丈夫だと答えた。そういえば、大丈夫?と聞かれて大丈夫じゃないと答えた覚えがないのは気のせいだろうか。
「クスリあるヨ」
食いすぎたわけでもないし、酒を飲みすぎたわけでもない。ただこれ以上ないというほどに気が滅入っているだけだ。
「気ぶン、ヨくナルヨ」
胃薬なんかで今の気分がよくなるわけないだろ。
「オにイさん、始メて?安クするよ。フワふわして気もチイイ」
……ふわふわ?もしかして薬って麻薬のこと言ってるのか。
そんなのいらない。必要ない。
ふわふわなんてしたくない。パーっとしたいんだ。
「ぱーット?」
花火みたいに。
そう、あの男の頭が花火のように弾けたらさぞ気持ち良いだろう。
あいつのせいに決まってる。あいつがいけないんだ。
それ以外にどんな原因があるんだ。
いま思えば、あんな嫌な考えは、直感というのかもしれない。
人差し指を少し動かすだけで、人に大きな影響を与えることができる。そんな便利なものを始めて手にした。
「花ビ?有るよ。ハナび」
こんな季節外れに花火なんてあるのか。めずらしい。
何であんな所に銀行のキャッシュ・コーナーがあるんだ。おかげで十万三千円をおろせてしまった。
そんなことより日本の警察は何をしているんだ。仕事しているのか。
この手にあるのは何だ。こんなに簡単でいいのか。
自分が警察の関係者でない証拠、つまり学生書を見せたらあっさりと売ってくれた。
エア・ガンさえ手にしたことがないのに、今手にあるのは本物だ。
花火というのは銃の隠語だったらしい。
しかし本当にこんなに簡単でいいのだろうか。
拍子抜けしてしまったようだ。何をしたらいいんだろう……。
――とりあえず帰ろうと思う。眠い。
どうやら俺は必然の実を枝からもいだようだ。しかしまだ口にはしていない。
必然の実を口にしたらどんな味がするだろうか。想像するだけで楽しくなり、少し不安がある。
二月二十九日 朝 家
偶然強姦の現場に居合わせて、彼女も同じ目にあったんじゃないかと考えた。そして必然的に殺意が芽生えた。
同じ場所で何度もやるとは思わないが、またあの車が同じ場所にいたら、いや多分いるだろう。
被害者が何も言わないと思っているから強姦なんてするんだ。
まぁいい、そうだったら多分彼らのせいだろう。ビデオがあるとか言っていた。彼女のもあるかも
しれない。
もしあったなら。
手の中にある鉄の固まりをいじる。今、家には誰もいない。静かだ。ゆっくりと銃を構える。
頭に弾を撃ち込んで、花火にしてやる。それはきっと気持ちいいだろう。
鉄の固まりは見かけよりもはるかに重い。テレビで見るようなものより小さいと思うのだが、両手でも腕が疲れそうだ。
黒色のそれ見る。リボルバーという種類らしい。弾は五発いり。銃身が短い。
こんな小さい物で人が殺せるのかと思うと違和感がある。知らない人が見たらただの鉄の物体。
これであの男を殺す。楽しそうだ。それと少し恐い。
上着のポケットに弾が十五発入っている。銃に弾を込め、セフティーがかかっていることを確かめて腰に挟む。最初、腹側に挟んだが歩くときに邪魔になりそうなので、背中のほうでズボンに挟んだ。
昨日今日でいるとは思えないがあの車を探しに行こう。
期待と不安がごちゃまぜだ。
俺は自己中だ。あいつらが死のうが俺には関係ないのだ。
ただ、人殺しになるのが恐かった。
俺はエゴイストだ。自分勝手だ。自分のために殺すんだ。本当の意味で復讐なんてするやつなんかいるんだろうか。他の人はどうなんだろう?
二月二十九日 夕 公園
騒音を撒き散らして走る車はたいてい遅い。
バイクで公園に来てからだいぶ時間がかかった。
先ほど昨日の車が停まっているのに気づいた。
しかしいつ来たのだろうか。どうも集中力が無くなっているようだ。とにかくカー・ウォッチングを始めるために、小さ目の双眼鏡を取り出した。
昼間にぎやかだった公園も薄暗くなり、自分一人しかいない。
小さな子が遊んでいるのをみているのは飽きない。滑り台で遊んだり、鬼ごっこをしたり、何がそ
んなに楽しいのかわからない。
みていて自分も何が楽しいのかわからない。それでも、なんか、こう、楽しい気持ちになる。
もうそんな時間は終わったが。
気温が下がるにしたがって、自分の体温も低くなるようだ。
夜の帳が下りてくるにしたがって、自分も闇につつまれる。
今座っているのはぶらんこだ。ここには街灯の光は届かない。車までの距離は三十メートルほどだろうか。車の淡い影が幾つも伸びている。
遠目に人が駅のほうから歩いてくるのが見える。男だろうか、女だろうか。
どうやら女のようだ。体格と歩き方でわかった。
しだいに例の車に近づく。運の悪い女だ。
横に差し掛かる。
二人の男が出てくる。
両側から挟み込むように女性を捕まえる。
暴れる。とうぜん暴れる。
双眼鏡から目を離す。
どうしようか。
考える。
人道的には助けるべきだろう。けど別にあの女が犯されようがどうでもいい。今の自分が人道的という言葉を使うのがひどく滑稽に思える。これから最悪の禁忌を犯そうとしているのに。
それにあの女性には興味ない。
しかし後味が悪そうだ。助けたとしても後味は悪くはならないだろう。
ああ、どっちでもいい。どうしようか。なんか面倒くさい。
女はまだ頑張っている。運のない女だが、根性はあるみたいだ。
おもむろに手にあった物を宙に放った。
何も考えずに投げた双眼鏡は、予想に反して理想的に放物線を描き、発情中らしいサルの頭に的中した。
適当に投げたのによくもまぁ、あんなに小さな的に当たったもんだ。
的は軽そうだから引力のおかげとは思えない。
小、中、高と十年間野球をやっていたおかげだろう。無心で投げたのもよかったかもしれない。
双眼鏡がないのでよく見えないが、この隙に女性は逃げたようだ。
後味が悪い。やっている後ろから、穴に銃弾を撃ち込んでやればよかった。
――いや。まだ、あいつらのせいと決まったわけじゃない。助けて後悔する理由はない。
そういえばさっきからサルが言い争っている。三十メートルほど離れているのによく鳴き声が聞こえる。
目を凝らすと一人の男が仲間に車の中に押し込まれているところだった。
双眼鏡が当たった奴が、顔をサルにしてやってくると思っていたのに拍子抜けした。まあどうでもいい。
爆音車がのろのろと走り出す。
後を追って行こうと思う。
眠い。このまま寝てしまいたい。
ひどく時間が長く感じられた。十分ほど走っていたようだが、三、四十分に感じられた。
早く時間が過ぎればいいと思った。
時間が止まればよいと思った。
早く憂さを晴らしたい。
人なんか殺したくない。
二月二十九日 夜 道
街灯が少なく、薄暗い住宅地に車は入っていく。
いいかげん疲れた。
いらついてくる。
時間が長く感じる。時が止まっているように感じる。
さぁ、時が動き出す。
二月二十九日 夜 アパート
結局三十分ほど走っていたようだ。
疲れた。汗が頬を伝い、アスファルトの上に落ちる。しかしそれは暗闇に吸い込まれていくようにしか見えない。遠くの街灯の光を受けて雫がかすかにきらめくような気がするだけだ。
三十メートルほど先に例の車が停車している。
呼吸を荒げながら、車を睨み付ける。車はとまっているがエンジンは止まっていない。
一人の男が降りてきて、声を荒げてドアを乱暴に閉じる。さっき双眼鏡が当たった男だろうか。
バイクから降りる。
少しずつ車に近づく。
足音は聞こえないが、男は乱暴な足取りでアパートの中へと入っていく。
車は降りた男が歩き始めるとすぐに走り出して行った。
男は二階へと上がっていく。
ほんの少し後ろを歩いていく。
今はもうニ、三メートルしか離れていない。
同じアパートの住民とでも思っているのか、すぐ後ろの自分に気にすることなく鍵を取り出す。
男はあるドアの前で立ち止まる。左から三番目。
その後ろを俺は通り抜ける。
熱にうなされたように思考が停止する。
体が熱い。
目が熱い。おそらく血走っているだろう。
背後の音を聞き漏らすまいと、耳に集中する。目は開いているが、感じてはいない。
鍵が差し込まれる音がする。
鍵があく。
ドアが開く。
男が一歩踏み出す。
その一瞬、俺は身を翻した。
頬の筋肉が動いている。引きつっているのか、それとも笑みを浮かべているのか。
二月二十九日 夜 玄関
強い決意などしていなかったが、行動を起こす瞬間、普通に足を踏み出すようにできた。
それともこれからのことを、たいしたことと思っていないのかもしれない。
夢の中の出来事のように、勝手に自分の体が動いてゆく。
夢の中では自分の行動は選択できない。それのように。
開け放たれた玄関から廊下の明かりが入ってくる。
突き飛ばした男の顔が照らされて、かすかに表情が見える。
ひどく滑稽だ。恐怖ではない。と思う。ただの驚愕だ。
どうしたら恐怖にゆがむのか。
ふむ・・・。
簡単なことだ。
なんかもうどうでもよくなってきた。
安物の皿を割った気分。
二月二十九日 夜 部屋
勝手に玄関の扉が閉まる。
ゆっくりと、暗くなる。
黒に包まれるたとき、とりあえず、銃を取り出し、引き金をいじってみた。
叫び声があがった。どっかに当たったようだ。
ふ〜ん。
痛そうだな。
電気のスイッチはどこだ。
手探りで壁をまさぐると、プラスチックの感触が指先に感じられた。
スイッチのようだ。
電気がつく。
さて、男はどんな顔をしているんだろう。
・・・期待はずれだ。驚いた顔なんてまだしてる。
そんな顔は日常でも見ることができるのに。
「ねぇ、怖くないの?」
死ぬんだよ。
もっと恐がれ。泣き喚け。無様な姿をさらすがいい。屈辱を感じろよ。
苦しませてやるから。
殺してやるから。
「いてぇよ・・・」
まあ、そうだろうね。どこに当たったかは知らないけど。
無意味に男の頭をけりつける。
土足のまま室内に上がり込んだ。
しばらくほっとけば現状を理解するだろう。まぁ理解する前に死ぬかもしれないけど。
そういえばこいつが彼女を犯したってまだ決まっていなかった。
何で部屋に上がり込んだんだ?
・・・そうだ。テープか何かを探そうと思ったんだっけ。
振り返ってうめき声を上げている男を見る。
探すのが面倒だ。このまま帰ろうか。電気のスイッチはどこだ?
あった。
・・・。汚い部屋だな。
かなり疲れたような気がする。
時間だ。
三月一日 夜 部屋
雑誌、服、CD。様々なものが散乱している。その中にMDより少し大きめの、似たようなプラスッチクケースがいくつもあった。
手に取ってみると、DVD−RAMと書かれている。日付も手書きで書かれていた。
再度部屋の中を見渡すと、パソコンがある。
DVD−RAMはパソコンで再生するメディアだ。
この中に・・・。
パソコンの電源を入れる。
起動時間がもどかしい。
とりあえずDVD−RAMをパソコンにセットした。ディスクの回転音が耳に届き、アプリケーションが起動する。適当に画面を進め、再生画面を開いた。
胃液が逆流する。そういえば今日は何も食べていなかった。
嘔吐を繰り返す自分のうめき声に混じって、女の悲鳴が聞こえる。
なぜ?
どうしてこんなことをする。どうしてこんなことができる。
息が吸えない。苦しい。くそったれ、くそったれ!
ふざけるな。殺す。死ねよ。
昨日から初めて感情が露出する。
何様だ?何を考えてる。俺にはこんなことはできない。
俺は何をするんだ。あの男を殺すのか。
感情のまま行動するのはあのくずと同じだ。
あの男はくずだ。そんなことは決まってる。俺は。俺もくずか。
いやだ、あんなやつと同じにはなりたくない。いや、くずでいい。いいから男を殺したい。同じ空気を吸いたくない。
このどす黒い感情を体の外に出したい。さもなければおかしくなりそうだ。
床にまき散らした胃液からいやなにおいがする。
床にはいくつものDVD−RAMがある。
いったいいくつある。いったい何人犯した。
男に目をやった。
あいつは頭がおかしいに決まってる。でなければこんなことはできない。こんなひどいことはできない。
そして、今の俺の頭もおかしい。
スピーカーから女の悲鳴がまだ続く。
一生聞こえ続けるような声だ。また吐きそうになり、下を向いた。
2/23、26、27という文字がなぜか目にはいった。
彼女はいつ死んだ。
二十七日。
銃声が聞こえた。俺は引き金を引いていないのに。
三月一日 夜 部屋
夢うつつでも、自分ではひどく冷静に感じる。
禁域へと足を踏み込みつつある。止まることはできても引き返すことは出来ない。引き返すつも
りもない。ただ恐ろしくて足がすくむ。それでもにじり寄るように足を進める。
手足が震える。息が荒れる。恐い。恐怖を感じている。
何に対して恐怖を感じるのか。よく考えられない。頭の芯が少し酔いのまわった時のように。
いや、そうではない。考えている自分もいる。ただ何かがよく分からない。
どこかで冷静に自分を見つめている自分を感じる。けれどその自分は俺の行動を支配しない。
ただ見つめるだけ。
冷静に見詰める自分、行動を冷静に起こす自分、怒り狂った自分、嫉妬する自分、怯える自
分。さらに多くの自分がいるように様々な感情が入り交じり、それがすべて同時に表面へ出ているようだ。
――ああそうか。一つの考えが浮かび上がる。統一した考えが出来ないんだ。
自分の考えを把握できない、制御できない。
そう、だから何かが……分からない。
スイッチを入れたら、ここから戻れない。
And,
To Be Continued ?