第22話 再始
名を口にあげ、記すことすら唾棄すべき存在には自然、二つ名が多くなる。
昨日と明日に君臨す地上の絶対者
現存する最古の記録にはそう残されている。
その吸血鬼が行った疵痕はたしかに世界にある。
そして悲惨な悲劇の名優が再び舞台に上がるのは自明のように、その強大な吸血鬼が世界という舞台から姿を消すはずもない。
だが、現在という時点で、今まさにそのものを確認した者は誰もいなかった。
その存在との邂逅は死とのそれと同義であろう。
ゆえにその吸血鬼の名を知り得るはずもない。
出会って帰る者がいないなら、その吸血鬼との出会いは死であり無意味。
名も知れず、意味ある邂逅も許されず、ただその存在に畏怖するしかないモノなど、「地上の」という修飾をつけても、かつてのヴァチカンの人々は「絶対者」としか表現のしようがなかったのだろう。
もともと彼女自身の名前などなかったが。
「神」を信じていたにもかかわらずその名を遺した先達には、しかし憤りも嘲りも感じない。
彼女はヴァチカンが打倒し得ぬ敵、その恥辱ゆえに秘された第一階位の中でもおそらく最悪の存在。
彼女と知って出会い、生き残った者など歴史上自分を含めて五指に足りる。
先日の共闘など悪い夢だ。誰が好きこのんであのような存在と肩を並べたいと思うだろうか。防護服なしでチェルノブイリを歩くほうがマシだ。
ヤスミーンは忌々しげに唇を歪めながら携帯の通話ボタンを押した。
「はい」
「わかっているとは思うが私だ」
ハスキーな女の声が告げる。
そう思うならいわないでほしい。この相手とはできることなら最小限も話したくはないのだ。
特に電話では。
彼女からの電話がやっかいごとを押しつけなかったことは記憶する限り一度もない。
今回の訪日も最初は領地からでてきたNo.VIの監視でしかなかった。
それがあの冗談のようなリーリエ・フォン・エーヴィヒカイトの様子を報告したら、試しに共闘を申し込んでみろ、などといわれたのだ。
「それでなんのようです」
「そう邪険にしてくれるな。声が聞きたかったからとでも言えば喜んでくれるかね」
「…………」
「失敬。どうやら私には場を和ます才能がないらしい」
「それで、用件はなんです」
「第二階位、それも円卓に座る者が日本に向かった」
「なっ!そんな立て続けに!?」
東アジア、その中でも海に隔てられた日本は、人外や魔術といった業界では隔絶している。陰陽術、修験道、神道といった独自の神秘技術、人外の管理システムなど独立性が非常に強く、ヴァチカンといえども日本の関係機関に相応の代償を払わねば告死者のような退魔士を派遣できない。忌避と無視の違いはあれど国外の人外もこの国に入ろうとはしない。
そのような国に円卓の者が訪れるなど、人力飛行機が海を渡ってくるようなものだ。
それが続けて。
「任務内容は、安心しろ、ただの監視だ」
「円卓相手に、ただの、とは言ってくれますね。はっきりと言いましょう。今の私では荷が重すぎます。先日の戦闘の傷は魔術で治療しましたが、反対に魔力がからです」
「そんなことはわかってる。格下の吸血鬼なら騎士でもかまわないんだが、円卓となると監視するのにも告死者でなければどうにもならん。だが告死者を続けて訪日させては日本の機関、羽玻璃(はばり)と問題になりかねん」
羽玻璃。日本独自の管理システム。ヴァチカンのように人が魔を駆逐するのではなく、魔が魔を支配する。人外との混血や退魔の家系が集まり混血の羽玻璃を宗主としている。和を乱す人外や魔術師などを処断する機関。日本という国家の公的機関ではないが、それに等しい。
ヤスミーンは相手に聞こえるようにため息をついた。
「……どうせなら羽玻璃に一任しませんか」
この狭い国に円卓と対抗しうる人材がいるとも思えないが、私はいくらなんでも疲弊しきっている。
「おいおい、冗談はやめてくれ。神の敵たる吸血鬼どもを放るだと?やつらを殺すのは善行であり、信仰の証明だ。やつらの死を積み重ね我々は言うのさ。「神さま!私たちはこれほどあなたを愛しています!!」とな。その愛の供物を羽玻璃にやるわけにいくか」
「今回はどうせ監視なのでしょう?」
「いいか?神さまというのはな。この世のどんな女より落とすのが難しい。口説くのには日々の小さな行いが大切なのさ」
「あなただって女の一人でしょうに」
皮肉ってみるが、そんなことで相手は止まりはしない。
「生物学的にはな。まあ、女という存在と躰は気に入っている。奉仕をさせ快楽を得るのに適しているんでな」
「神への愛を語った口で卑猥なことを言わないで下さい」
「卑猥?私はいかなる愛も尊きものだと言っただけだぞ?」
「性愛まで含んでほしくありません」
「む、まあ、そこは議論の分かれるところだ。話がそれたが、お前への任務は確定だ。羽玻璃の方の調整は気にするな。怪我の療養のため滞在が延びると言ったら快く了承してくれた。あと可能なら「彼女」の様子も見ておけ」
「な、ちょっと!待って下さい!」
「わかっている。可能なら、だ」
それだけ言い残すと通話はきれた。
「まったく。情報もなにもないんですか」
ため息をつき受話器を置く。
ヤスミーンは広域にわたる探査魔術は得意だが、今の魔力量では新たな吸血鬼を探すにしても限界がある。
「彼女」の所在を知っているのはこの場合、良しとすべきか否か迷う。まあ、可能ならば、といわれたのであまり気にする必要はないだろう。
そう判断するとヤスミーンは探査魔術を唱えるために魔力を錬る。
「愛しい神の御身がゆえに」
そう呟いて苦笑する。
恋人と一緒にいて幸せに笑う、冗談のような「彼女」を思い出した。
神の愛を唱えるのに異論はない。
だが、あの冷酷な死神を微笑ませることができる恋というモノ。
それが少し。
ほんの少しだけ。
それを手にする死神が羨ましく思えた。
日付が変わって時間がたち、しかし夜明けにはまだ遠い時刻。
少し開けられた窓から夜気が部屋に入り込んでくる。
昨日は日中に出かけたため、二人は人間のように夜に寝ていた。
最近はそんな日が多い。
フューキが、今日はいい天気だから、と出かけてしまうのだ。
となれば当然自分もついていくことになる。
普通かなりの上位機吸血鬼でさえ日中に外出するのは忌避する。
耐えられないわけではないが、疲弊するのはたしかだからだ。よほどのことがない限り日の下にはでてこない。その点フューキは異常と言える。彼に趣味は、と尋ねれば、日光浴、と返ってくるだろう。それほど彼は昼出かけることを好んだ。特に耐性が強くなってきている最近は。
だがもちろんそれは体力や魔力といったものを消費する行為には違いない。疲れたフューキは深い眠りについている。
それに比べ私はさほど疲弊していない。陽光への耐性もだが、体力と魔力もフューキとは比べモノにならないほどあるからだ。そもそも私には睡眠というモノがさほど重要ではない。体力の回復を努めるという必要がないからだ。戦闘後は別だが。
そのせいだろうか。私は目を覚ましゆっくり寝台から身を起こす。
否。目を覚まさせたのは甘い血の匂い。
しかし花の蜜にたかる蝶のように、その香りに眠りから意識を引き寄せられたのではない。
一人二人ではないその血の多さに不吉さを感じ取ったからだ。
おそらく十人に近い人間の致死量が流されている。
「挑発してる?」
眉をひそめて呟く。
たった十人だ。ひとたび吸血鬼が野で狩りを始めれば、古き時代では被害者が四桁に登ることも珍しくはなかった。
それらを経験している私にしてみれば十人程度の被害は、少ない、と思える程度しかな
い。
生きるために食べるしかない。超越者たる吸血鬼でも結局その法則からは逃れられないのだ。ごく一部を除いて。
それは補食される側からすれば悪でしかないが、補食する側からすれば自然行為に過ぎない。
まあ、本来、ただ生きるためなら四桁もの命は必要ない。
血に香りに〈死族〉の臭いが混じっている。隠す様子もなく巻き散らかされた体臭を嗅いでしまったかのように、今度は顔をしかめる。
不快だ。
人から吸血鬼へと変わった〈死族〉が人の血を、ときには肉さえもその内に納めようと飲み干し食らいつくのは生存に必要な行為だ。
不完全ながらも人の血をすする限り不老不死を保ち続ける〈死族〉たち。
その存在は真っ当なモノではなく、元から不老不死を与えられた〈起族〉と違い自然法則、世界法則に反するモノに他ならない。
不自然なそれは世界の修正を免れない。
だから〈死族〉は血肉を欲する。かつての等位種であり世界法則の理の中にある人を吸収することによって、世界法則に己をそれからはずれるモノではないと錯覚させるのだ。
それと同時に修正に対抗する力を付けるため最も効果的な食物が、かつての自分と同じ種である人なのである。
仮にオオカミの吸血鬼がいたらオオカミこそが最適の食物となる。
かつての同種であるからこそ、最も効果的なのである。
「だというのに……」
鮮烈な血の臭い。それはつまり、飲み干されることなく、撒き餌のようにぶちまけられたのだ。
私を呼び寄せるなら〈死族〉の気配だけで足りるはず。殺気をまき散らされればすぐにでも気づくに違いない。
だからこの、どこかで流れる血はまるで無意味だ。せいぜい私に対する挑戦、挑発の類でしかない。
この芳しくも不吉な臭いの中で安らかに寝息をたてるフューキに視線をやる。
ちょっと考える。考える。
うん、これは怒るべきことだ。これはいけないことでフューキの倫理観に照らし合わせれば憤りを感じるべきことだ。
これはどうでもいいことではない。
だからやっつけなければいけない。
命を奪うことは悪いことだ。たとえどんな理由があっても許されない悪いことだ。
けど、いかなる場合でもやってはいけない行為、ということではない。
食べるために生き物を殺す。
復讐、報復、正義。悪に違いなくとも、確かに「殺」を行えうる理由というのは存在する。
だから情状というものがあり、ときに人は戦争を許容する。
そうニュースという面白くないテレビ番組を見ながらいっていた気がする。
なによりフューキの側にこんな物騒なヤツがいるなんて冗談じゃない。
私はベランダにでると、念のため誰かが侵入できないように部屋に結界をはる。これでフューはのんびり寝ていられるはずだ。
ベランダの手すりにのぼり、町並みを見渡す。
次の瞬間、安らかな寝息を残して虚空の散歩者となった。