第3話 日常 夜編
これは悪夢だ。私はそう自分に言い聞かせる。
これはいつか見た風景。かつての日常。目を覚ませばきっと彼は横にいる。
なのに、一向に悪夢は終わらない。
赤い絨毯の敷かれた長い廊下には風さえ流れない。それは時間の存在さえ感じさせない。
辛い。痛い。悲しい。……淋しい。
そう、寂しい。
人気のない廊下を駆け抜ける。昔は廊下を走るなんてことしなかった。だって必要なかったから。
足音は厚い絨毯に飲み込まれ、自分が今ここにいることさえ不確かにさせる。
部屋という部屋の扉を開き必死になって探す。
探すなんてことしなかった。だって欲しいものなんてなかったから。
自分でもよく分からないまま城中の扉を開け放った。
無い。どこにも無い。
すべてが無機質。停止。すべてが制止され殺されている。
圧迫抑止制約強圧静止断絶滞留停滞。
風も、時間も音すら無い空間に、何を探すかさえ忘れさせられてしまいそう。
何を探していたんだろう。
そう、彼だ。こんな所にいるはずもないのに必死になって探している。
私は溜息をついた。
馬鹿らしい。ここは私の、昔の夢だ。
気づくと寝室にいた。天涯付きの豪奢な寝台にそっと腰を下ろす。
ようやく落ち着いて記憶の中の映像と比較するが、何ら違う所はない。これは私の夢なのだから知らないモノは創造されない。この城の中で知らない場所など無い。この内だけで数百年の時をすごしたのだから。
この城の中には誰もいない。ずっと昔には誰かいたようにも思えるが、記憶の中には誰も存在しない空間だった。私以外には。
寝台に寝転がる。
さみしい。
ここ数年、たったの数年だ。私が生きてきた年月に比べれば、刹那に等しい。
ため息をつく。
そういえば私って何歳なんだろ?彼には「女に歳を聞くなんて!」って誤魔化したけど、彼に比べるとずいぶんお婆ちゃんよねぇ。
何か愚かしさを感じて苦笑する。
サミしい。
前はこんなこと思わなかったのに……。
ちがうか。ただ知らなかっただけよね。独りが当たり前だったし。
とても長い間この城にいて、何かに耐えられなくなった。そして外へ足を踏み出したのだ。
今思えば孤独に押しつぶされてしまったんだろう。
サミシイ。
誰もいない城内は静まり返っている。自分の息しか聞こえない。
木がざわめく音くらい聞こえてもいいでしょうに。
カレガイナイトサミシイ。
私はずいぶん彼に依存している。
どうしてだろ?
理由を探そうと彼との思い出を振り返ってみる。
彼と初めて会った時、自分から挨拶した。
…それくらい他にもある。
二度目にあった時、その日のうちだったが、彼から挨拶してきた。
…それくらい他にもある。
たったそれだけなのに彼は私に興味を持ってくれたようだ。
三度目にあった時、なぜかまた会う約束をさせられた。
約束なんて初めてした。約束は一人じゃできないから。
そういえば彼ったら、その待ち合わせに一分も遅れたのよね。
笑みが自然と零れる。
この身が刻んできた時に比べれば一分など一瞬どころか無に等しいのに。
初めて誰かと約束した。誰かと初めて手を繋いだ。初めて一緒に歩いた。初めて一緒に食事した。笑い会った。独りではできない楽しいことを初めて楽しいと知った。
初めてだったから好きになったんだろうか?
違うと思う。
好きなところは他にもある。たくさんある。でも好きになった理由はよくわからない。
でもなぜか、そんなことどうでもいいと思った。
私は立ち上がった。今度はゆっくりと廊下を歩く。深く沈む絨毯はやはり足音を消してしまう。動を感じさせない、もの悲しい城だが、彼のことを考えたら余裕の笑みさえ浮かべることができた。
見逃さないように、確実に、今度は彼じゃなく、夢の終わりを探して歩く。
目を覚まして早く彼の顔を見たい。
……何でこんなに惚れちゃったかな。
ここまで好きになった訳が分からない。
彼だったら「ま、いいか」で済ましてしまいそう。
彼は幸せをくれる。不幸もくれる。だって二つは対だから。コインの両面を分かつことはできない。現にいまは夢の中で不幸。さみしいから。
自分が吸血鬼ということは二律背反な感情を与えてくれる。
彼とずっと一緒にいることができる。けどずっと不幸になるかもしれない。
私は外に出てから今まで追われている。彼にはまだ言っていない。言いたくない。
言ったら彼は私から離れて行ってしまうかもしれない。それほど奴等は執拗で、危険だ。
人外の者をひたすら狩り続ける教会の狂信者に、より完全な不死を求める同胞。
何でも私の血肉を食らうと永遠に近づくだとか。
確かに私が血を飲み、血を与え契約した彼はまだ若い吸血鬼であるにもかかわらず、太陽の下を歩ける。本来は数百年生きて力を貯えた者にしかできないことだ。
「ま、いいか」
口に出して驚く。どうやら彼の口癖が移ってしまったようだ。
なんか嬉しくてクスクス笑いがもれる。
問題は追われているということだ。けどそれもどうでもよくなってきた。
彼なら「ま、いいか」で済ましてくれるような気がする。
だって勝手に吸血鬼にしちゃった時もそうだったし。
けど、その前に怒られちゃったらどうしよう。彼、怒ると結構恐いのよね。そのあと急にけろっとして「ま、いいか」何て言っちゃったりしてくれるんだから。
ま、なんとかなるわよ、だって彼は私が大好きなんだから。
目を覚ますと彼女が難しい顔をして眠っていた。
自分を勝手に吸血鬼にしてくれた彼女は寝顔すら表情豊かだ。
別に吸血鬼になったことを怨んでるわけじゃない。あのとき通り魔に刺された自分はそうでもしなければ死んでいただろう。
吸血鬼になったことで不安なことはただ一つ。いつまで彼女と一緒にいられるかだ。
楽しい夢でも見ているのか今度は微笑んだ。
ついその額に口付けをする。
彼女の瞼がうっすらと開き、闇の中でなお輝く黒真珠の瞳を覗かせる。
「ごめん、起こしちゃったな」
「いい」
小さく言うと細い腕を伸ばし頬に触れてくる。
「夢の中でね」
「ああ」
「あなたがいないの。とても、淋しかった」
首に腕を廻し抱きついてくる。そっと髪をなでてやった。
「楽しそうに笑ってたぞ」少し皮肉げにいってしまう。
「最後はね、でも最初はとても寂しかった」
そんなことを言われても夢の中に入って行ける術など知らない。だが少し罪悪感を覚えた。彼女を独りにしたくない。夢でもこんなに悲しく囁くような思いはさせたくない。
「手を繋いでてやるからもう少し寝ろ」
照れで少し乱暴に言う。
彼女は小さく笑うと再び瞼を閉じた。すぐに可愛らしい寝息が聞こえてくる。
彼女は時々何かを怖がっている。それが何かわからないけど、自分が味方でいることを信じて欲しい。俺はあんまり強くないから、その恐怖から守って幸せにしてやるとは約束できないけど、不幸になってもそばにいたい。
けど永遠なんてない、残酷なこの世界ではこの恋もやがて終わる。
だからこれは願いだ。
いつまでも君を好きでいられるように、君が好きでいてくれるように。
この想いが消える前に、どうか世界が亡びるようにと。