第4話 日常は薄氷のように
晴れた満月の夜はよく冷えた赤ワインとグラスを二つ持って月見に出かける。
昼は少し雲が出ていたが、今はその光を遮ることはない。
ワインの善し悪しは自分に分からないしどうでもいいが、美味しいものが大好きな彼女のおかげでわざわざデパートまで買いに行った。
月の位置はまだ低く、公園を囲む木々の上に顔を出したばかり。広々とした芝生の中心に腰を下ろしワインのコルクを抜く。このコルク抜き、人間だった頃は苦労したが、今は瓶を握り潰さないよう注意しなくてはいけないくらいだ。
もちろん先に彼女のグラスへ赤色をそそぐ。レディーファーストなんてかっこいいものじゃない。彼女が早く飲みたくて我慢できないからだ。
これで先に自分のに注ぐと「はやく飲みた〜い」と絡まれる。
−−いやむしろよし。そうればよかった。
好きな女をいじめて楽しむのは子供の特権ではない。
…コホン。
しかし結局はグラスをぶつけてから飲むので、飲み始めるのは一緒なんだが。
「うん、おいしい。五臓六腑にきくわね〜」
ワインに口をつけて彼女が変なことを言う。
「おい、なんか変じゃないか?今の日本語」
「?なにがよ」
本人には自覚がないらしい。
「ワインみたいな酒にそんな言い方しない」
「偏見よ、私がそう表現したいんだからいいの」
わがまま姫は今日も健在だ。
「ま、いいけどさ」
軽く流すのもなれたもんだ。
そんないつも通りの他愛ない会話。しかし昔も、そして今も静寂は突然に、一瞬に壊れる。
空気が急に冷える。雪が降るかのように空気が研ぎ澄まされていく。あまりに急な空気の変わり様に、狼狽える。なにか強烈なプレッシャーを感じる。
「Brenne!」
何が起きているのかわからないのは俺だけだった。
彼女はとっさに立ち上がり、グラスの中身を円状に飛ばした。さらに早口で唱えるとワインが嘘のように火を挙げ周囲に壁を作った。
おそらく、魔術だ。
「何するんだ!誰かに見られたら!」
「立って!敵がいる!」
咄嗟に反応できない。吸血鬼なんかの普通でないモノになったって平和ボケな日本人的日常をおくっていたのだ。敵なんて言われても困惑するしかない。
「敵?敵って何だ?」
「後で説明するから!」
彼女のあまりにも真剣な表情に気おされて立ち上がる。
その時だった。ゾワリと背筋を冷たい手でなでられたのは。
その感覚と共に闇の中、一人の影が炎に照らされていた。
「お久しぶりですね。S・リーリエ・フォン・エーヴィヒカイト」
「知り合い?」
彼女の長い名前を流暢な発音で呼んだのは、緋色のスータンを着た女だった。
その名をうまく発音できないので、俺はあまり呼んだことがない。たいてい愛称のリーと呼ぶ。それは彼女も同じことで、日本名である俺の名前を口にすることは少ない。お互い、とてもではないが正しい発音からはほど遠い。それに二人きりでいるときはたいして名前は必要ない。
彼女と二人で生活するようになってから初めて自分たち以外に名前を呼ばれたことになる。
「嫌いな、っていう形容詞をつけていいならね」
厳しい視線を女に向けたまま呟く。普段からは想像もできないほどの威圧を放っている。
「ローマの番犬が私に何のよう」
「別に」
「別にですって!?」
まなじりをつり上げ、怒気をあらわにしていく。
どうしてそこまで感情的になっているのだろうか。
彼女のことだから理由もないということはないだろうが、壮絶なまでの気配に疑問が浮かぶ。
「用がないなら私の前から消えなさい!」
「少し落ち着け」
冷静にさせようとするが、まるで耳に入らないほどだ。彼女が冷静さを欠いてゆくのと反比例して俺は落ち着きを取り戻していった。
「あなたにはないですが、隣にいる彼に用があるとしたらどうですか?」
「!!」
激昂が最頂点に達した。
そんな彼女に俺は不安さえ覚える。何がなんだかまるでわからない。
「冗談ですよ」
「ふざけないで!」
「だから落ち付けって!」
猫のように全身の毛を逆立てている肩を後ろから撫でる。さらに背筋を人差し指で、つつっとなぞった。
「ひゃん!」
小さな悲鳴と一緒にリーが放っていた怒気が霧散する。
背中の弱い彼女は絶好の加減で背筋をなぞると、それだけで腰砕けに近い状態になる。
今も俺に背を預けてしまっている。
何が起きたかわからないのだろう、現れた女は訝しげに彼女を眺めてから俺を見やった。
「あなたとははじめまして、ですね。私はカトリック教会に属するヤスミーン・ツェント・ヘンカー」
そうしてリーが過剰反応したわけを教えてくれた。
「吸血鬼を狩る者です」