第6話 月下
彼の手がそっと私に触れる。与えられる触感に、次に撫ぜられる肌が期待に熱くなる。
彼がどう私に触れるか憶えてしまった。
期待に火照った部位を正確になぞり、いっそう私を高ぶらせていく。
このあと告げなければならないことがある。彼は私から離れていくかもしれない。
好んで命を危険に晒すものなどいない。
いたとしても生き残れる自信を持った者たちだ。吸血鬼としての彼は赤子に等しい。知識も、身を守るすべもなく、身体能力の優れた人間に過ぎない。
私と別の道を行くことになっても、それは正しい判断だ。彼が平穏であればそれだけで私は……。
彼の舌が頬を流れる滴を拭う。
嘘だ、欺瞞だ、自分を欺くなどどうしてできよう。
「フューキ」
あなたは私のものだ。
「フューキ」
けれど、あなたはあなたのものだ。
一緒にいたい。
リーリエは窓辺に立ち、窓から沈みつつある満月を眺めている。
月に照らされる一糸纏わぬその姿はひどく神秘的だ。闇にとける髪。新雪のような肌。
淡い胸元。折れそうなほど引き締まった腰。あまりにも完璧すぎて、そして感情のない顔がいっそう彼女を作り物めいた美しさを醸し出す。
世界の中心に据えられた女神の像のよう。そこに立つがゆえでなく、彼女が立つがゆえ世界の中心となる。圧倒的な存在を示す静。
ただ揺らめく瞳だけが彼女を教えてくれる。そこに心があることを。
「私にはね」
俺は身じろぎ一つせずソファに腰を下ろしていた。
「逃れられないものが、二つあるの」
窓ガラスに触れられていた掌がこぶしにされる。遠い街灯りを掴むかのように。
部屋の中には月明かりと月影だけ。
弱々しい街灯は、真夜中の月にその役目を託している。
「一つはさっき会った教会の告死者。ホントかどうか知らないけど、悪魔憑きなら枢機卿でも独断で処罰できるらしいわ。それくらいカトリックでは偉い人と思ってくれればいい。私もよくは知らないし興味もないもの」
脱ぎ散らかした服に歩み寄り、それを手にする。
ゆっくりと着始める。
白いシャツを着、えりを繕う。ゆっくりと身支度は続く。
「彼らはすべての人外であるものの天敵よ。とくにキリスト教圏内ではね。人外を狩り続けるものたち。彼らにしてみれば吸血種の中で力のある私は、もっとも殺したい一人でしょうね」
そこでリーリエは振り返った。
「彼らは今ではさほど気にするほどはないわ。あまりにもうざったいから、もう何人も返り討ちにしてやったし。今では突っかかってくることは少ないの」
着終わった彼女はソファにゆっくりと近づいてくる。
「あなたに言わなければならないことの一つは、」
「一つは、」
「私は人殺しだということ」
「人間社会において、あなたの倫理において、私は許されない罪を負っている」
殺さなければ私が殺されていたとはいえ、彼の常識において殺人は許されざる忌むべき罪のはずだ。今も殺した者たちへの罪悪感はないけど、後悔はある。
フューキに嫌われるようなことをしてしまった悔恨。
嫌悪の言葉を投げつけられるかもしれない、いや、投げつけられるという恐怖。
平和な環境で育ったフューキが殺人を奨励するはずもない。
彼からすれば殺人鬼と罵られる以上の屍を今まで築いてきた。
座る彼の前に立ち、瞳を閉じ断罪の言葉を待つ。
「告死者という人たちはリーをどうして殺そうとしたんだ」
「私が吸血鬼だから」
短く唯一つだけ呟く。
「それだけか?」
「それだけ。私が一人でいた城から出てしばらくしたら、襲ってきた。吸血も、殺人もしていなかった。なのに。死にたくなかった。だから殺した。血を、浴びた。口に入った。気持ち悪かった。何度も、何度も、何十人も、何百、何千、もしかしたらそれ以上やってきた」
リーは目をつぶり、掌を合わして握りしめ、腕を下げている。
血の嫌悪を思い出したのか、言葉も体もかすかに震えている。
「みんな殺した。私を殺そうとする者を」
私のせいじゃない。なのになぜ私がこんな恐怖を味わなければならないのだろう。
ひどく、理不尽だ。
好きでフューキに嫌われるようなことをしたんじゃないのに。
好きで殺したんじゃないのに。
拒絶される言葉が恐くて、体が震えるのが分かる。
平面世界のふちに立って、突き落とされるのを待つみたいだ。
「そうか、よかった」
「?」
俺はそっとリーの手を掴み抱き寄せる。
逃げられないように。逃げる必要はないというように。
「嫌いにならない?」
子どもが不安そうに尋ねるようにされては、安心させるしかない。
「もちろん」
「許してくれるの?」
「許せるのは傷つけられた、殺された人自身だけだ。死んだ人は許すことができないから、リーは許されることがない。でも……」
「でも?」
嫌いにならないといったのにまだ不安なのだろうか。泣きそうな瞳で見つめてくる。
安心させてやるつもりで微笑んだ。
日本人としては瞳を覗かれるのは辛いものがある。
けど逸らすことはできない。
黒真珠の瞳は綺麗で、吸い込まれるようで、触れたくなる。
「悪いこともしていないのに、リーが自分を殺そうとした人を殺したからといって、その人たちを悼む気分にはなれない。そんな名前も知らない人たちより、リーリエが死ななくてよかったよ」
ゆっくりと長い黒髪を撫でてやる。冷たく滑らかなそれは指先に心地よい。
殺人はいけないことだ。それを許すなどと傲慢なことは言えない。
それでもこの宝石が曇るのはいやだ。
自分は偽善者で自己中心的なのだろう。
殺人は罪だと知りながらリーリエを罵しる気もなく、ただ抱き合えることを、彼女を殺せずに殺されていった人たちに感謝すらしている。
恋人を殺そうとした、知らない連中が死のうと、心痛められるほど優しくはない。
誇らしくもあるが悲しくもある。
大切なモノを得られたうれしさ、それによってなくしてしまった何か。
「……ありがとう」
それでも彼女が微笑んでくれるなら−−。