第8話 待ち人
空は薄く曇り、直射でない暖かな陽光が地面を照らしている。それでも中には早くも葉を落としている木もある。月並みだが、うららかな秋の午後、という表現がぴったりの昼下がりだ。
うららかな、というのは晴れの日に使う言葉だったような気がするが、吸血鬼の自分にとってそんな日はとてもじゃないがうららかなと表現したいものじゃない。
人道りの少ない広い歩道を歩き目的地まで行く。
いつもは二人で行動することが多いが、この用事の時だけはリーが一緒に来ることは少ない。
立ち止まり、手に持っていた封筒を赤い箱にほうり込む。
「こんにちは」
声を掛けられて振り返る。
「おどろかないんですね」
そこには一昨日の夜に会った女の人がいた。確かヘンカーさんといったか。
吸血鬼専門の殺し屋らしい。そのため動きやすいようにか茶色い髪は短い。
背も高く中性的で綺麗なリーリエと違い、微笑むそのさまは女らしく可愛らしいという表現が似合う。
「あなたは今殺人者と話してるんですよ」
不可解そうに首をかしげる。
おれはやっと差し込んでいた封筒から手を離し、ポストに投函し終える。
相手は緋い薄手のロングコートを来ている。
暑くないんだろうか?
それよりどうやって逃げようか。
この間は用はないといっていたが、今回も同じとは考えないほうがいい。リーもかなり嫌っていたようだし。
「ヘンカー、さん、でしたっけ?」
実は少し酔っていた前回とは違い素面だ。
内心は滝のような冷や汗を流しながら表情を繕う。何とか隙をついて逃げたいが、はたして可能だろうか。
「ヤスミンで良いですよ。さんもつけなくていいです」
「じゃあ、ヤスミンなんか用?」
何気なく辺りを見渡す。人道りは少ないが全くいないというわけではない。いくらなんでもこんな所では殺されないだろう。
「あなたを殺しに来ました」
「−−−−−−!」
必死に押さえていた嫌な汗が、額から滲み始める。
殺しに来ましたなんて言われて嬉しそうにする変人じゃない。
「慌てないんですね」
さっきから内心ではどうやって逃げるか算段しているんだが。
「安心してください。今日も殺しに来たわけではありません」
飛びつきたい言葉をいってもらい、信じたくなってしまう。
「安心しました」
正直に、張っていた肩から力を抜く。そして溜息を一つ。
所詮人は信じたいことを信じるものだ。
彼女はそれを見て頬を左手で撫でた。
「一昨日も想いましたが、ずいぶんと変わった人ですね」
ほとんど面識もないでそんなことを言うヤスミンも変だ。
「普通は殺人者に会ったら恐怖するか嫌悪するかです。私たち告死者はあなたのような人外にとっては天敵以外の何者でもないのですから」
「包丁でも突き付けられれば別だけど、殺人犯といわれても実感が湧かないのが本当のところだな。銃を見せられたって玩具にしか思えないし、弾まで見えちゃ尚更だ」
うそは言っていないが、すべて真実というわけでもない。事実現在、内心はかなり危険な状態になっている。それでも銃よりも包丁の方が恐怖を直感に訴えてくるのは事実だ。
なぜか彼女は驚いた。
吸血鬼でも弾道を見ることはそうできないらしい。
「第一天敵だっていうけど告死者なんて知ったのは一昨日が初めてだし」
平静を装って強が自分を滑稽だと思う。もう相手も気づいているかもしれない。
「驚いた、ずいぶんと平和ボケ名吸血鬼がいたものです。吸血鬼になって数百年は経つでしょうに我らのことを知らないとは無知が過ぎます」
法王庁の諜報機関が無能なのかもしれませんけど、とそれに続けた。
「話を戻すけど何のよう?」
平和ボケだとなんだといわれて否定できないのを口惜しく思いながら話題を変えようとする。とにかくこの状況を終えたい。
「フューキという吸血鬼は教会のデータベースにありません。その調査に来たんです。本人に聞くのが一番早いですから」
それは確かに載っていないだろう。吸血鬼になって三年。彼女らに接触したのは今回がはじめてだ。
「で、今のところ何か分かったことはある?」
敵対しているだろう者に直接話を聞くといった相手が、どう自分を判断したのか興味があった。会話をして気を紛らわしたいというのが本音だが。
「そうですね。別に知られてもかまいませんし、知ろうと思えばいくらでも知ることができますからいいでしょう」
前置きはどうでもいいんだけど……。
「吸血鬼フューキ。逃走を図る際、魔術を行使せずに行おうとしたことから、使用できる魔術は少ないか、できないと思われる。弾丸を視認できたことから身体能力に自信があったとも考えられる。シュヴァルツ・リーリエ・フォン・エーヴィヒカイトと共に行動する。昼に出歩いていたことから推定年齢二百歳以上。おそらく第三階級に属すると思われる、といったところですか。……もっと知りたかったんですが、邪魔がはいたようなので失礼します。
後で彼女に話があると伝えてください」
彼女は時間と場所を指定すると、こちらの反応を気にもせずに身を翻し、さっさと歩いていってしまった。
唖然としてしまっていた。彼女の唐突さにではなく、
「フューキ、あんな女となに話してたのよ!?」
「なんでおれが二百歳なんだ……?」
おれはまだ二十歳だ!!
「アハハ、それは仕方がないわよ。だってあいつフューキが私の血を受けた〈子〉だって知らないんだから。〈子〉は〈親〉に逆らえなんだけど、フューキはそう見えないから勘違いしたんでしょ。普通なら確かに二百年くらいしないと昼出歩けないしね」
それでもちょっとショックだ。どうしてといわれても困るけど。
「私の血肉は特別だっていったでしょ?だから余計なものに追っかけられてるんだけどね……」
最後は自嘲気味になっていた。それを慰めるように彼女の頭を撫でる。
「そういえば彼女が後で話があるとかいっていたぞ」
思い出した伝言を忘れないうちに伝える。
「へえ、何かしら?」
それを聞き不思議そうに首をかしげた。
僅かに欠けた月が雲に遮られることなくその光を存分に地上に与えている。
公園の芝と二人を照らすのは冷たくも暖かい月光と無機質な一つの街灯。
俺は街灯に、リーは俺に背を預け人を待っていた。
ときおり耳に届くのは風の声と遠くに聞こえる車のエンジン音。
深夜の公園は音が少ない。二人の声もない。
ただ時計だけが、一滴一滴したたり落ちる血のように取り返しのつかない何かがなくなっているのを教えてくれる。
時は世界の流す血だ。流れ終えれば世界は死に、時は止まれば世界は終わる。
待ち人はまだ、こない。
海の底のような暗さと重さに耐えきれない。
肩により掛かられた背をそっと押す。
「おそいな」
「まだ三十分も過ぎてないわよ」
「俺が一分遅れたときは怒ったくせに」
はじめて待ち合わせしたときのことを思い出す。ひどく怒られたのでそれ以降はだいぶ早く待ち合わせ場所に行くようにした。それでも、彼女の方がいつでも先に待っていたが。
「約束を破ったことには違いないじゃない」
「そりゃそうだけど。じゃあなんで今は怒ってないんだ」
自分だけ厳しくされてるような気がして不満をもらす。
「あいつに約束を破られたからって、痛くも痒くもないからよ」
今まで約束に驚くほど忠実だった彼女の言葉に驚いて顔を向ける。意外といってもいいくらいだ。
「そんなもんかね」
「そんなもんよ」
二人で小さく笑い合う。
リーが可愛らしい笑い声を止めた。
「来た」
それと同時に、僅かに聞き覚えのある声が闇の中から伝わってくる。
「なんかお楽しみのところ申し訳ありません」
たいしてすまなさそうにもしないで、下手な声優のように棒読みに言う。
「そんなことはどうでもいいわ。それより要件は何?」
よっぽどヤスミーンのことがきらいなのだろう。言葉が剣呑とし、早く帰りたいのが見え見えだ。
「ちょっとしたお願いがありまして」
「お願い?何かの冗談かしら」
ようやくヤスミーンが街灯の明かりが届く範囲に歩んできた。それでも弱い光では彼女の表情まで読みとれない。
そして、それ以上は近づこうとはしなかった。
「冗談ではありませんよ。先日、第二階級を追ってこの街に私がやってきたことはいいましたよね。そこでです。あなたに共闘を申し込みます」
簡潔に、だが信じられないことだ。
「やはり冗談ね。お堅い告死者が洒落を言うなんて、長生きはするものね」
そう、彼女が人外を狩る者なら、その申し出は矛盾に他ならない。
「私にしてみればあなたがそんな皮肉を言うほうがよほど驚きです」
本当に仲が悪い。まあヤスミーンは吸血鬼殺しらしいから仲がよいはずもないか。
しかし溜息もつけない凍った気配は止めて欲しい。
「あなたは吸血鬼とはいえ抹消対象外ですから。少しは譲歩して差し上げます」
修羅場になれていない平和主義者としては恐ろしくて仕方がない。
二人の顔を見なくてにらみ合っているのがわかる。
こんな関係で共闘を申し込むとは正気のさたではない。
「今回の対象は」
激情を押し殺した雰囲気を隠しもしていない。
「第二階級の中でも、最強の力を持つ〈円卓の徒〉の一人です」
「それはご苦労様、というべきかしら」
自分には関係ない、そう嘲笑する。
「いいかげん私の神経を逆なでするのも止めてもらいましょう」
リーのか、それとも自分の神経かを落ち着けるように一息いれる。
「対象を消滅させることは極めて難しい。よくて相打ち、最悪ろくに傷つけることもできないでしょう。それほど円卓の者たちは種として人を超越している。この申し出はあなたにとっても悪いものではないはずです。対象の目的はあなたにほかならない。普段のあなたなら私の助力など不必要。しかし現在はどうでしょうか?」
薄闇の中から視線を向けられたのを感じる。
つまり俺が足手まといということだ。戦う術などこれっぽちも知らない俺は口惜しいが反論もできない。
「別にこの街から出ればいいだけよ。一人殺したくらいでは何ら意味もないし」
そこでリーはゆっくりと顔をめぐらせた。
「昨日のうちに街を出てればよかったわ。何でこんなに早く見つかったのかしら」
顔を再びヤスミーンに向け視線を強くする。睨みつけるを通りこし殺意すら感じる。
「さあ、どうしてでしょうね」
「白々しい。無理強いする女は男に嫌われるわよ」
ヤスミーンはそれを聞いて小さく笑った。
「本当に俗っぽくなりましたね」
「余計なお世話よ」
そして世界は反転する。