第9話 緊迫の影

 そして世界は暗転した。

「あ……」
 ゾクリト、セスジガコオル。
 脊髄が、脳が、全身のあらゆる骨が氷に置き換わる。
 急に襲った震えは、鳥肌は、ナニカヲ教えてくれる。
 リーの左の黒い瞳が紅に変わっていた。燃えるような血の紅なのに、絶対零度の視
線。
 暖かいはずの血の色なのに、不吉を連想させる色。
「隠れ鬼をするつもりはないの。出てきなさい」
 闇、としか表現できない。そんな男だった。長身の体躯を黒いコートで包み込み、優雅
に礼をする。しかし洗練された動作も男の禍々しさを隠そうとはしない。
「お久しぶりです。我らが王」
「久しぶり?私たちは初対面だと思うのだけど?No.VI・エドレッド・エスス」
 短いやり取りの中にも漠然とした何かを感じてしまう。
「私のことをお忘れですか?」
「知らないわね」
 言葉に込められた力は拒絶。
「左様ですか。貴女にとっては塵に等しい記憶でしょうから、仕方のないことかもしれませ
ん」
 対して残念そうでもなく、ゆっくり影がのびるように淡々としている。
 リーの視線だけで殺せそうな、事実彼女はそれができるにも関わらず、男は悠然と構え
ている。
 自分はというとエススが放つ禍々しさ、リーが放つ冷たさにもやは息もままならない。脚
は震え、指先は冷たい。鳥肌が立ち、気は逆立つ。影が縫い取られたかのように動けず、腕は鉛のように重い。本能が頭痛という警告を発している。
危険きけんキケン−−!!
「フューキ!!」
 突き飛ばされる。半瞬前まで自分がいたところを何か黒いものが鋭く突き上がる。
 それは影そのものだった。自分の影からのびた槍のようなものが下から襲ってきたの
だ。
 彼女が突き飛ばしてくれなかったら死んでいたかもしれない。あまりのことだがもはや流
れる汗はない。すでに全身はこれ以上ないほど冷や汗に濡れている。
「王とあろうものが下賤のものを助けるとは」
 やはりその身が放つ気配は冷淡なままだ。
「気配を見るにそのモノは貴女の〈子〉であるようだ。貴女に〈子〉など必要ない」
 男は俺たち3人を見渡す。
「今日という革命の日を教会の者が立ち会いとは喜ばしい。王よ、その血肉、我が糧とさ
せていただこう」
「影絵で戯れる輩に、後れをとるような間抜けではない」
 自分とは違い余裕すら持って嘲笑する。
 だが俺のせいだろう。うまく隠しているが、僅かに焦っているのがわかる。
「皮肉を仰るとは、ずいぶんと俗に染まったようですな」
 その視線を俺にやる。
 その瞳を見てしまった。闇色のすべてを飲み込むような色。
 ブラックホールとはこういうものだろう。
 不随意筋すら硬直し、呼吸が苦しくなる。心臓すら止まったかのように体を動かすこと
ができない。
 まさに蛇ににらまれた蛙、そのものだった。
「なぜそのようにおなりか、理由は問いますまい」
 両腕を大きく広げる。
「我ら眷属が象徴、白き月が欠けているのが残念ではありますが、しばし我が凶宴にお

つきあい願いたい」
 それが合図だった。
 ふたたび影から槍が突き出され、大きく後ろへ飛ぶ。
 今度はうまくよけることができたが、安心するまもなく次々と槍がのびてくる。
 とうに尽きたと思っていた冷や汗が再び背をつたった。心臓もうって変わって破裂しそう
なほどだ。
「No.VIなんて面倒な!」
「だからあなたを巻き込んだんです!」
 黒い槍を避けるのに精一杯で、俺には口を開く余裕なんてなかった。
 必死になって、ひたすら槍を避ける。
「月明かりがあるのを喜ぶべきか、月の魔力があるのを悲しむべきか、悩むところです」
 ヤスミーンはいつの間にか取り出した短剣で槍を払う。
 パパンッ!!
 左手に銃を構え発砲するするが、影が布のように広がり銃弾を包み込んでしまう。
「法王庁はまだ懲りぬと見える。影に潜む我を滅するなど、力不足と嘆くのもおこがましい
とわからぬか」
 冷たい嘲笑は身を震わせられぬほど凍えさせる。
「くっ!」
 至近距離から襲う槍をひたすらかわしていたが、偶然にも男が視界に入る。
 脚が闇にとけ、黒い根を生やしているかのようだ。さらに、不気味に脈動すらしている。
 右腕に激痛が奔る。避け損なった槍が深く傷を作ったのだ。
「くそっ!」
 慣れない激痛を振り払おうと毒づく。闇が、影が濃いところからより鋭い槍が襲う。いつ
の間にか離れていた街灯のしたに何とか戻ろうとするが、多方向から鋭く突かれ、よけい離れてしまう。
「フューキ!!」
 リーが俺に近づこうとするが、槍が邪魔して容易にかないそうもない。
 灯りがいっそう弱々しくなり、襲い来る槍がさらに鋭さと数を増す。
 僅かとはいえ、月明かりがあるのは確かにありがたいことかもしれない。
 他の二人も余裕がないのか反撃する様子はない。
「どうして昼間の内に始末しなかったの!」
 あまりの痛さに徐々に躰の動きが鈍り、さけるのが紙一重になる。
「そう無能者に難を言うものではありませぬ。影の内に融け、影という概念に依存し潜む
我を見つけるは、いささか難儀なことでありましょう」
 答えにどこか哀れさをにじませる。
 再びよけ損ねて右腕に傷ができる。しかし麻痺しつつあるのか痛みがない。だがいやな
血の感触だけが鮮明に、なまめかしく感じる。
 脂汗が額ににじみ、鼓動は高鳴り警鐘を鳴らす。血が流れでて躰が重くなる。
 痛みはないが、痛みがもたらすものだけがあった。
 よけそこねが増え、かすり傷が増えていく。

 そしてとうとう、

 右の手の平を貫かれる。

 影の槍でもって闇に縫い取られる。ピンで刺された標本の蝶のように。

 そして足が止まってしまう。
 この場において致命的な、絶望的な行為。

 迫り来る槍がひどくゆっくり見えた。
 それと比例して自分の動きもさらに鈍くなってゆく。
 脳だけがひどく活性化され、恐怖という感情が奔流のようにあふれる。

 やばい、ヤバイ、YAB……!!!!
 よけられない。そう、事実として知ってしまった。
 
 槍がのび勢いよく突き立てられた。

 槍に刺される。
 激痛が、……!
 

 たった今まで立っていた空間が串刺しにされる。
 間一髪でリーに抱きかかえられ、五メートル横に着地した。
  抱えられる瞬間の衝撃でむせ返る。何とか助かることができ、咳き込みながら礼
を言う。
 そして三人を襲っていた槍はいつのまにか止まっていた。
 唐突な、不可解ですらある静寂だった。

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