第11話 焦り
艶めかしい彼の血が残る右手を掲げる。
指先を虚空へと滑らせ、あたかもガラスがあるかのように文字を描き出す。
「Das Blut」
魔術を発動し道具を呼び寄せる。
それは黒銀の大鎌。懐かしい、手になじんだ重さだ。所々に美しい装飾が施されている。自らの身長よりも長い柄は吸い付けるように握った手を離さない。
「ヤスミーン」
必死にNo.VIに投剣を、銃弾を、魔術を、さらには体術すら駆使して攻撃を仕掛ける彼女に声をかける。
人を役立たず呼ばわりしたくせにまるで成果を上げていない。
だから無能と呼ばれるのだ。
「どきなさい」
そんな彼女は邪魔でしかない。
風がまとわりつくように力の奔流が体躯を舐める。
私の両目は血のような赤色に染まっているだろう。それは自分にかけた封印を解いた印に他ならない。
そんなはずはないが、視界すらほの赤く感じる。薄く血で彩られた水面のようだ。
久しぶりの高揚感と世界との一体感を感じ、大鎌すら腕の一部のように重さを感じさせない。
「何をっ、いま、さ、ら……」
強い語気は即座に小さくなってゆく。
紅の邪眼を見てしまった彼女は硬直してしまう。人の身には、フューキにも少々きついだろう。
再び唇を歪める。自嘲だ。力のない者はこれだけで死に至る。彼には見せたくない力の一つ。
出し惜しみした理由はただそれだけ。我ながら愚かで、哀れな無様さ。
「ようやく目を覚ましたか、化け物め」
さっきまでのような振る舞いを投げ捨て罵倒する。
「No.VI。あなたのの望みはなに?」
頭の隅に引っかかっていたことを口にする。
「私の血肉?ならどうして挑発なんかしたの」
多くの死族たちのように永遠が欲しいなら、いくらでも私を喰らう機会はあった。私という存在を消し去ることはできないだろうが、影の内に取り込み咀嚼することを可能にするだけの能力が、男が操る影にはある。まして私は彼の心配で気もそぞろだった。
私が覚悟を決める前にさっさと喰らえばよかったのだ。
「私に、おまえを消滅させる術があることは知っているでしょうに」
無造作に、だが反応できぬほどの速さでもって踏み込み、片手で大鎌を振るい無慈悲に首を切り落とす。
なんの感慨もない。
苛ついてさえいる。
「どちらにせよ影絵と遊ぶつもりはないわ。いい加減に本体をだしなさい」
落ちた首は跳ねることなく、水面に投げられた小石のように闇が覆った地面に沈んでしまう。
首のない躰も黒い池の中に倒れ込み、消える。
静寂があたりを覆う。それを崩すことなく一人の男が地面からわきあがった。
お互いなんの意外性もない。気づいていなかったのはフューキと告死者だけだ。
先ほどまでのはただの分身。闇を錬って作られた人形に過ぎない。
「退きなさい。腕の一本や二本ならくれてやるわ」
最終通告を与える。早く彼を本格的に治療しなければならない。一分一秒が惜しい。帰らぬ時間に比べたら、しょせん再生する腕など惜しくもない。
イタイけど……。
「笑止」
……そうだろう。こいつらはそんなもので満足しない。
「ならば恐怖せよ」
あいている方の手で口のまわりをなでる。冷笑したつもりだったのに唇は歪められていない。彼と会う前に戻ってしまったかのようだ。
……まあいい、殺し合いには不要だ。
笑みの変わりに殺気をまき散らす。
思考を一点に作り替える。
殺。
No.VIの挑発の真意はわからない。
しかし、もうどうでもいい。
二人の私がいる。
ひたすら感情を凍らせていく私と、高揚に身を任せる私。
殺害はかつての私が他人と関係しあえる唯一のモノだった。
殺すのは好きではない。でも嫌いでもないのだ。
No.VI。影に潜む人外。周辺の影という概念に身を委ね同化し、不死を体現したモノ。
この男を殺すのは事実上不可能。
なぜなら影すべてを消し去らなくてはいけないから。
燦然と太陽が輝く昼間でさえ影はいたる所にある。影を持たない物などない。
つまり闇に包まれている夜なら、限りなく本当の不死に近い。
この空間は男の箱庭に過ぎない。
円卓の中でもっとも真の不死に近い一人。
その意味でもっとも私に近い一人。
不死のあり方すら私に近い。
黒い槍が幾本も私を襲う。
「無駄よ」
そう思うだけで槍は霧となって散ってしまう。すでに〈回線〉を開きつつある。
「なっ!?」
あまりの出来事にNo.VIは愕然とする。
「馬鹿な!影は我という世界の内にありしもの!そこに干渉するなど不可能のはず……!」
今度は私を飲み込もうと、具現化した影が布のように広がるか結果は同じだ。
「自己というのはもっとも強固な殻だ!貴様!どうやって我に干渉した!」
No.VIは必死に考えている。
滑稽だ。ひどく簡単な答なのに、その答を知っているはずなのにね。
「〈アレ〉を使うと思った?あんなモノを使わなくても貴方を消し去る方法はいくらでもあるわ」
「ククク、ハハハハhahaha!!!!!」
気が触れたように突然哄笑をあげる。答えに行き着いたのだろうか。
「まさか!これほどとはな!所詮我は貴様を模した児戯に過ぎぬか!!」
そう、影も自然の内あるモノでしかない。自然という概念が受肉した存在にとっては、影は内包物の一つに過ぎない。
世界との接続を強くする。大地、風、木々が、すべてのモノが自らの手足であり目のように感じ始める。
いや、事実そうだ。それを使って〈影〉を掴み、回線を〈世界〉、〈影〉とつなげ、侵食を始めればいい。
言葉、呪文すら唱えずに意識する。
Das
Welt…….
Ein ist
Weltuntergang…….
Ich bin
Welt.
Das Welt ist
…….
鎌の柄の中心を両手で持ち、回転させて円を描く。青白い光が弧をひき、空間に円が浮かび上がる。その〈門〉と呼ばれるものに〈鍵〉を入力すればよい。円の中央に右手をさしだす。
同時に浮かび上がった紋様が青白く光り、夜を不吉に照らす。できあがったそれは幾何学模様のようであり、何かの絵のようでもある。
「Seid!」
そして回線を解放する。不完全に。
支配下におく。何を?全てを、だ。
しかし影という存在だけが釣り糸を退く魚のように、必死に逃れようとしている。
糸をたぐりよせる。捕らえた針は決してとれることはないのに、魚はもがき続ける。
No.VIが支配する影という存在を徐々に塗りつぶしていく。今のNo.VIは影そのもの。影を喰らうのはNo.VIの魂を犯すのに等しい。そう、喰らい、No.VIを閉め出すのだ。
不完全な力の解放なだけあってその作業に手間取るり、敵も抵抗してくる。
その攻防は、フューキが教えてくれたオセロにも似ている。影という盤上に次々と力を投げ込み、盤を自分の存在で埋め尽くそうとする。もっとも盤を埋める色は白と黒、ではなく共に闇色。
けれど勝つのは自分と決まっているのだ。
やがて盤上は私の闇で埋め尽くされるだろう。
問題はその早さ。時間をかけられるほどフューキの怪我は軽くない。しかも特殊な魔術
による怪我、影というNo.VIが支配し干渉するもののため、傷からフューキの存在が干渉される可能性すらある。
「ハハ!まさか自己という存在が侵害され得ようとは夢にも思わなかったぞ!」
自身が蝕まられるのがわかるのか、耐えるように全身をこわばらせ、やがては微かだが痙攣すら始める。
大地からのばされた影の槍を今度は崩すことができず、左肩に傷を負う。
痛いが我慢できないほどじゃない。
やはり影という限定した領域では相手の方が一日の長がある。
影に干渉して取り合いながら操作するとは。
漆喰を爪ではがすように徐々に領域を広げていく。
甘かった。
予想以上に手間取り焦りが生まれる。
gYは影の支配領域を取り戻すのを諦めてひたすら防御にまわり、残った影で攻撃を加えてくる。
無数の槍を、意識を他に集中したままかわし続けることができず、少しずつ痛みという警鐘が脳をさいなんでいく。
しかしそれに乱されることはできない。
色々危険もあるが〈回線〉をもう少し太くすれば良かったと後悔する。だがこの状況では危険は倍増する。
腹立たしいことに槍は意識のないフューキすらたびたび狙った。無理矢理影に干渉して塵とする。その回数が増すごとに躰の傷からではない、脳自身が過負荷で痛みを訴える。
時間がない。
フューキも、私も。