第14話 終わりの夢

全てを雪が支配していた。山も木々も大地も、空すら雪に隠されている。
 風もなく緩やかに降り積もる雪はあまりにも穏やかで、ぬくもりを錯覚してしまいそうだ。

無論それは幻に過ぎず、空気は吐く息すら凍えさせる。
 しかし自分を震えさせているのは寒さではなかった。
 白一色の世界の中、咲き誇る赤い薔薇よりも鮮やかな紅が、雪に覆われた大地を飾っ
ている。
 どれだそうしていただろうか。
 首のない主の躰には雪が積もりつつあった。自分にとって絶対だった主は、目の前の
大鎌を持つ化け物に比べれば足元にも及ばなかった。
 円卓に座す者として十分な力と傲慢さを持った彼は、黒衣の女に比すれば滑稽なほど
弱者だった。
 唯一白いその肌を彩る紅の飛沫を拭いもせず、黒き王は右手に鎌の柄を持ったまま静
かに私を見ていた。
 ただ見ているだけだった。
 ただ、そう、そんな言葉がこの王にはふさわしかった。
 ただ見るだけ、ただ立つだけ、ただ生きているだけ、ただ佇んでいるだけ。
 ただ生きているだけ、ただ在るだけ。
 その存在に震えることしかできないでいた。
 それは恐怖だったのか、それとも歓喜だったのか。
 足がすくみ立ち上がることもできないまま、

 私もただ、彼女を見ていた。

 雪原に立つ黒き王は、それだけで絶対者だった。
 ただ在るだけの、純粋なる唯一たるいと高き存在。
 彼女がゆっくりと背を向ける。
 もとより興味の色も、感情すらなかった視線が自分から外された。
 自分を捨て置き、黒き影は振り返る気配もなく淡々と歩みを進める。

 私は彼女を見ていた。気づけば震えも止まり、徐々に遠ざかる背を

 いつまでも見ていた。


 ――見ているだけだったのか……。

 ゆっくりとまぶたを開けるとカーテンの引かれていない部屋はかすかに明るく、空は紫
紺で夜明けが近いことを教えてくれた。
 夢の中で呟いた言葉を小さく声にだす。
 彼女は下に座り、ベットの上に両腕と顔をのせて寝ていた。起こさないように注意しなが
らベットの上に上半身を起こす。
 そっと、長く綺麗な黒髪に指をからめる。
 しだいに夜の影が薄れてゆくと共に、物語のような夢の余韻もかすれていく。
 誰かの古い思い出をなぞるかのような夢。
 人の顔や光景はあやふやでありながら印象だけが残る夢だった。
 白と赤、そして闇色。
 絶対と信じていた者の死と、彼に死を与えた、あまりにも美しい女。
 その前で畏縮する男。
 男はきっと、その女に奪われたのだろう。
 主という存在、主に対する信頼、自らの矜持、そして自分の心すら。
 そっとリーの細く白い指をなでる。
 この指は自分の髪に、頬に、肩に触れてくれる。いつか触れてくれなくなったら自分はど
うするのだろう。自分も触れることがなくなっているなら問題はないだろうが、そんなことはあり得ない。俺はいつまでも彼女に触れていたい。
 でももし一緒にいられなくなるなら、リーの糧になりたい、糧にしたい。死ぬのも殺すのも

嫌だが、喰われ、咀嚼し、血肉となり、血肉としたい。
 幸い自分たちは吸血鬼で多少肉がそがれても不都合はない。二人とも血は嫌いだが
……。
 馬鹿だ。いかれてる。いくら吸血鬼だからと、こんな想いをするなんて。
 まあ、いい。そんな先のことを、来て欲しくないことを考えるのはやめよう。
 彼女に触れることができることと、そのために勇気を振り絞ることができたことを嬉しく
思っていよう。
 白くなめらかな頬を指先で触れる。
「……ン……」
 煩わしそうに声が漏れる。面白くて二度三度と突っつく。
「ンん……」
 これ以上やると起こしそうなので諦める。
 見ているだけだった夢の中の男と自分は違う。
 触れたければ想いを伝えなければならない。
 腕にその身を包み込みたければ、ともに歩まなければならない。それが人の律から外
れることであっても、自分はその道を選ぶことができた。
 しかし夢の中の男は自ら歩むことができず、ただ見送るだけだった。
 この間のような告白が彼女から再びあるかもしれない。自分とは違う存在だと突きつけ
られるかもしれない。
 それでも恐れずに、恐れても夢の男が居竦んでいただけようにはならない。
 足が震え立つことができなくても、這いつくばってでも進みたい。
 本当は告白を聞いたときリーが恐く思えた。それでも彼女が欲しかった。幼子のような
彼女を抱きしめたかった。
 あの男のようにはならない。
 顔もわからない夢の中の男と女を思いだしそっと呟く。
「俺が立ちすくんだら、鎖に繋いでひっぱっていいよ」
 言いながら馬鹿らしくなって小さく笑う。
 そっとベットから抜け、何も肩にかけないで、寒そうな彼女を起こさないように持ち上げ
ベットに横たえる。こんなとき吸血鬼としての怪力がありがたい。
 自分もその横に寝そべり、シーツを掛ける。
 人であったころは彼女のことをここまで強くは思っていなかった。
 ひとりぼっちで寂しそうな彼女に何かをあげたかったけど、何かをして欲しいと思ったこ
とはなかったように思う。独りよがりな自分勝手な想いだった。
 だからかもしれない。リーはときおり拗ねたような、不満そうな表情をしていた。
 あのときはなぜそんな顔をするのかわからなかったけど。
 一度かいま見た場所は暗く、寒く、それでいて何もない、生のあとの世界。死とは便宜
的な名称で、本当はそんな名前すらない世界だった。
 寂しかった。
 風も、音も、温もりすらなく、ただひたすら孤独だった。
 彼女にいて欲しかった。
 初めて彼女に何かをして欲しかった。
 初めて彼女を求めた。

 耳に触れる彼女の寝息が心地よく、しだいに微睡みに包まれる。
 まもなく日が昇り、まぶしい朝日が射し込むだろう。
 カーテンが閉められていないのを意識の片隅で思い出したが眠気に勝てず、やがて自
分も眠りについていった。
 彼女の素肌に触れ、求められないことが不安だったのだと気づきながら。


 信じられない、でも信じたい  それは穏やかな日々

 求めたい、求められたい  それは彼
 
 血としたい、血となりたい  それは浅ましい欲望


 目を開ければ、今日も彼が横にいる……。
 とりあえずは、それでいい。

PRE  CONTENT  NEXT
NOVEL