第16話 昔日への巡礼

「――Windhauch……」
 小さいつぶやきに答え、一枚の厚紙を風が手からさらっていく。
 紙片は空を滑り、暗く小さな穴の中へ入っていった。
 郵便受けに入った、消印のないはがきを見て彼女らは何を思うだろうか。
「いいの?会わなくて?」
「笑ってるだろ」
 二人はマンションの屋上に立ち、通りの向かい側にある小さな一軒家を眺めていた。窓
の内側では母子が笑いあっている。
 正確にいうなら一人は、そんな二人を見る一人を見ていた。
「そうね」
 吸血種の知覚範囲は人とは比べものにならない。食卓にある昼食のメニューまで見て
取れる。
 たった二人だが、食卓についた彼女らは昼食を取っていた。
「今日の昼飯は炒飯か」
「……」
 女は男が漏らした言葉を聞き流す。それに滲んでいた想いに気づかぬ振りをするため
に。
 しかし不安はすぐに大きくなり、蓋を持ち上げあふれてしまう。
「淋しい?」
 自分ではそれを満たすことはできないのだろうか。
 それは悲しくもあり、妬ましくもあった。
 自分にはできず、求められる者が羨ましかった。
「淋しいっていうより、懐かしい、かな」
「懐かしいっていうのは過去に対する哀愁でしょ」
 やっぱり淋しいんじゃない。
 女は男から視線を逸らした。窓の内側にいる少女とその母。
 そっと念じる。
 安っぽい電子音が風に乗って、確かに聞こえた。
 男は隣りに立つ女を怪訝そうに見る。
「会ってきたら」
 不可思議な力で玄関のインターホンを鳴らし、女は呟く。
 少女が玄関から出てき、通りを眺めるが当然人がいるはずもない。
「帰ってくる自信ない?」
 男が帰ってくるのは自分のところ、そう女は主張する。
「帰らせてくれる自信がない」
 あの二人に逆らえたためしはない、そう男は笑った。
 少女はついでとばかり郵便受けをのぞき込んでいた。一枚のはがきと、幾つかのチラシ
を取り出す。
 硬直した次の瞬間、少女はチラシを放り投げて家の中へと駆け込んでいった。
「はがき一枚であそこまで喜ばれると、明日みやげが着いたらどうなるんだろ」
 窓の内側で二人は顔そろえ、はがきを覗き込んでいた。
 先ほど以上に笑っている。
「明日までここで見てく?どうせ暇だし」
「いや、もう行こう」
「本当にいいの?」
「…………そんなに言うなら会いに行こうか?」
 そしておもむろに手を繋ぐ。
「ちょ、ちょっと、まさか私も!?」
「ああ、紹介するよ。このひとに誑かされましたって。さ、行こう」
「だめ!」
 女は逆に男の手を引く。男は頭を垂れる女に向き合った。
「自信がないのはリーの方だろ?俺が二人を前にして、帰ってくるのか自信がない。リー
が二人と会って、俺の手を離さない自信がない。そうだろ?」
 子供のように激しく首を振る。男は横に振られる頭をそっとなでた。
「実を言うと俺も自信ない」
 だからさ、
「もう少し自信がついたら、会いに行こうな」
 今度は縦に、小さく振られる。
「行こう」
 そして二人は二人に背を向けた。
 窓の内と外、道を挟んだ向こうとこちら。
 
 今が昼でよかった。夜ならここは暗いから。
「何か言った?」
「ううん、なにも」
 彼があの二人に出会ったとき、確かに自分から手を離さない自信がない。自分は彼を
離したくないけれど、それは不幸になる同義だろう。幸せにしたいけど、幸せにできない。
幸せになって欲しいけど、そのために離れることもできない。
 なんて愚かな二律背反。

 でも、
 それでも、
 今はただ、なにも思わずにこの温もりを。

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