第18話 過去の出会い
気づくと映画は終わっていた。
ビデオを借りてきて二人で見ていたのだが、どうやら寝てしまったらしい。横でもフューキが気持ちよさそうに眠っている。
どうもまだ日常に慣れない。いや、正確にいうなら日常に戻れない。No.VIの件から違和感がつきまとう。
寝顔を観察する。
特に美男子というわけでもない、と思う。あらゆることに無関心に、もちろん顔の美醜にもそうであったためか、顔の価値というものがいまいち理解できない。奧二重の目は少し
鋭く、だがその光は穏やかだ。ときおり強く輝くのが好きだ。
それくらいしかフューキの容姿に惹かれることはない。
フューキは自分を美人だというがそうなのだろうか。
容姿の優越など意味のないものなのに。
薄皮をはいでしまえばそこにあるものは皆同じ肉のかたまり。
寝顔を見つめる。
No.VIとの戦いで自分は〈世界〉と接続した。それは巨大な情報を保つ〈世界〉と溶け合うこと。
コーヒーに一滴でもミルクを垂らしたら、そこにブラックのコーヒーはない。
そしてそこからミルクだけを分離するのは不可能だ。
だから自分は当然変わってしまったはずだ。
フューキはその違いがわからないという。それはそれでいい。受け入れられるなら。
でも日常に戻れない。
寝顔を眺める。
なにか日常に浸ることを邪魔している。
自分は変わらずに受け入れられた。
自分も変わらず受け入れている。
そのはずなのに。
でも何かが違う。
何かがあの件の前と後では食い違っている。
抜けないとげが微かに日常を犯している。
ほんの少し前となにが違うんだろう。
昨日。一昨日。十日。一ヶ月。一年。そして出会ったころ。
私は、少しずつ、齟齬をさがすように想い出をたどっていく。
小さな棘をさがして。
その気配に気づいたのは足音が聞こえてからだった。
規則正しく、遅くもなく速くもない。気配を殺すでもない、ごく普通の歩み。それなのにその存在はひどく希薄だ。
歩くこと以外特に目的のない歩み。
私という個体に対する干渉の意思はない。
歩き方からおそらく男、が進む方向に私があるにすぎない。
私には関係のない人物。ならばこの行為を中断する必要もない。
月に手をかざし全身にその光を浴びる。温度のない柔らかい光が満月から降り注ぐ。
月の魔力に身を任せながら、足音が自分のごく傍らで止まるのを感じた。
無論そんなことはどうでもよいこと。
「いい天気……」
私は心地よく光をただ浴びるだけ。
「こんばんは」
男、いやまだ少年と言える年頃だろうか、彼は軽く会釈をして通り過ぎていった。
いくらか時間が過ぎたころ、彼は戻ってきた。手には白い袋を持っている。
「こんばんは」
彼は再び言った。
「最近は物騒だから、夜の一人歩きは気をつけたほうがいいよ」
後で知ったことだが、そのころ通り魔事件が街を賑わしていたらしい。死亡者もでていたようだが、知っていたとしても私の反応は変わらなかっただろう。
私は呆然としていた。
私が、この私が、月夜に警戒する必要があるというのだろうか、と。
人が栄え、街の灯りが星光をうち消そうとも、満ちた月を忘れさせはしない。
今宵は私のものだ。
自らの箱庭で震える者がいようか。
彼にしてみればちょっとした親切心だったのだろう。
彼は優しい。ときどき意地悪だけど……。
夜遅くに何をするでもなく、呆け立っている女がいれば多くの人が訝しげに思うだろう。
そして一握りのお節介な人間は、御親切に声をかけるのかもしれない。
彼も変な女に不可解ながらも親切心を出しただけだろうが、そのときの私も不可解な面持ちで彼を見ていた。
私は自分を知らない人間から話しかけられたことはほとんどない。私を知っている人間が私の心配をするはずもないし、人が知らない人間を心配することも知らなかった。
気配から私のことを知らないようだ。
たしか街を歩いていれば男に話かけられたこともある。
だが彼の一言のもつ響きは違う。
私を知る者たちが必ず滲ませる殺意。
私を知らぬ者たちがいつも滲ませる粗野な笑み。
そんなものはどうでもよく、不快という感情すら私に感じさせなかった。
だが今は心地よかった。
静かに穏やか。
涼やかに温もりを放つ。
そう月光のように。
「私が危ないなら、貴方もそうでしょう?」
人の心配もいいけど、自分の心配もしなさい。
だって魔は月に誘われるから。
こんな日は良くないものに出会ってしまうから。