第19話 よくわからない彼

 彼の言葉は満月のよう、身に浴びるその明かりのようだった。

 わずかに冷たく、かすかに静か、ほのかに暖かく、おぼろに照らし、淡く癒す。
  その色は、黄色で白く、蒼く銀に輝く。
 引きつけ、誘い、惑わす。

 どうでもいい人間はずが、その声に魅せられる。
 
「私が危ないなら、貴方もそうでしょう?」
 驚きだ。
 自分の口からそんな言葉がでるなんて。
 他人の心配をするなんて、もしかしなくても始めてじゃないだろうか。

「だから急いでかえるところ。それに寒いし」
 寒いのは苦手なんだと言いながら苦にしている様子はない。
 変な人間。
 するとやはり寒いのが堪えるのか、小さくくしゃみを二回する。
「う〜寒い」
 袋に手を入れて何かを取り出す。取り出された細長い缶には甘酒と書かれていた。
「はい、あげる」
 その缶を差し出されたが、私には何がなんだかわからなかった。
 人の良さそうな雰囲気に半ば呑まれて、つい受け取ってしまう。
「気にしないで、まだあるし」
 袋から同じものをもう一つ出す。それでもまだ二、三個は入っていそうだった。
「まあどうでもいいじゃない。儲けたと思ってもらっておいてよ」
 どこか、人が悪そうに、からかうように少し笑う。
「風邪引かないようにね」
 今度は人が良さそうに微笑むと、開けた缶に口を付けながら行ってしまった。
「変な人間」
 さっさと行ってしまった彼に呟きかける。
 よくわからない人間だった。
 私に声をかけるものは皆、何か執着していた。
 街で声をかけてくる男たち、私を殺そうとしてくる者たち。
 両者とも何かを瞳に潜ませていた。不快な何かを。
 彼にはそれがなかったが、そう、それこそ彼がいうように。
「どうでもいいこと、よね」
 どうせ考えてもわからない。ならばその思考は無駄。
 無駄とは切り捨てるもの。

「それにしても変わった月ね」
 晴れ晴れとした夜空にも関わらず、大気が濁っているせいかどこか濁ったようにも見え
る月。ぼやけた光はいつにもまして温かく思える。これはこれで綺麗な月夜だ。
 こんな魅月夜(みつきよ)にはよくないことが起こる。

 人は月に惑う。
 魔は月に誘われる。
 だからよくないものに出会ってしまう。
 
 そして私も誘われてここにいる。
「貴方にとって良くないこと。それは私に出会ったことかもね」
 そう、私は吸血種だから。 
 ただ一人で立ち呟くと、初めて夜風が厭わしく思った。
 缶を包む両手以外、肌を冷やす風邪が不快だった。よくわからないが体の内まで撫で
つけるその冷たさが、初めて不快に思った。

 手渡された缶の温もりは冷気に奪われつつある。
 焦りにも似た感情で冷える前に呑まなければと思った。
 おそらく暖めてあったのは温かいうちに飲むためだからだろう。
 そんなどうでもいいことにどうして焦っているのかわからなかったが、とにかく早く飲もう
と思った。
 そこで私は愕然とした。
 こういったものを手にするのは初めてで、どうやって開けたらいいのかわからなかった

のだ。



 缶はすっかり冷えてしまった。それも当然であれから12時間以上経っている。
 最初は力ずくで開けようかと思ったが、無理矢理ねじ開けて中身がこぼれるのはいや
だった。あれこれ悩んで、こんな矮小なことに〈接続〉してまで調べようと決心したころには、外気にさらされ続けた缶は冷えてしまっていた。
 そうなると興味が失せた。
 魔術で温めるという手もあったが何故かする気も起こらず、〈接続〉するのも面倒で、か
といって捨てられず両手で弄びながら時間ばかりが過ぎていった。
 記憶にある自分の人生はほとんどこんな感じだ。
 夜も昼も変わらず空を見上げ、何かを待って佇む。
 あるいは木々の間を、時には人の間をぬい歩み、どこかへと向かう。
 永き時は生きながらにして歩む屍体を創りだす。
 腐乱する屍体に集る鬱陶しい蝿をときおり払う以外は特にすることもない。
 蝿は告死者か〈死族〉という。
「May I Help You?」
 なかなかの発音で男が話しかけてくる。
 どうでもいいことなので返事もせず、前に来ていた長い黒髪を背に流す。
 男の瞳には、やはり見慣れた何かがくすぶっている。
 鬱陶しい。
 今日は特に気分が悪くさせられる。
 いつもこのような男に話しかけられても、何ら気分を害されたことはない。
 何故ならそのような感情を起こすほど興味がないからだ。
 だが不快だ。今日はこの類の眼を見るたびに、殺意すらかき立てられる。
 どうかしている。
 人影のなか、何をするでもない。男たちに不快にされながらも立っている。
 不快だ。この男も不快だ。何故このような者に気分を害されなくてはならない。不快だ。

不快すぎる。男の気配も気にわわれば、眼の色も厭わしい。声が耳障りなら、下手な発音は不愉快だ。そもそも私の母国語は強いて言うならドイツ語だ。人ではない私が母国というのも可笑しい。英語の理解ができないわけでもないが、勘違いしている男にも虫酸が
走る。うるさい。五月蠅い。そうだこの男も蝿だ。蝿を払うことに何のためらいがいよう。
 男に視線を向ける。
 殺してしまおうか?
「ひっ……!」
 とたん腰を抜かして後ずさる。

 周囲の奇異な眼を感じて嘆息。

 何をやっているのだろう私は。こんなただ人に邪眼を使って。
 人外の多くが持つ人ならぬ瞳は毒だ。軽々しく使って良いモノではない。でなければこん
な鬱陶しい視線にさらされる。
 それから逃れるように、数時間ぶりに歩き出す。もちろん男はそのままだ。
 今までいた公園入り口から飲食店の前を通り駅に向かう。
  そちらに行けば何かいいことがある気がした。
 私にとって良いこととはなんだろうか。今まで特に良いことも悪いことも経験したことのな
い私は、僅かばかりの好奇心に引かれて歩き出す。 
 
 そして彼に再び出会った。

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