第20話 愛しき愚者
周囲の、特に男はなぜか不愉快な視線を私に向けてくる。
そんな中で彼との距離はしだいに狭まっていく。
彼もまわりの男と同じように私を見るのだろうか。
5メートル、4メートル、3、2、1、私の方へ視線が流れる。行き違う。
「ちょっと、無視しないでよ」
視線はあっさり私を素通りし、どこか彼方を見ていた。
とっさに彼の裾を引いてしまう。
「え?」
驚いて私を見つめる。
少しきつめの目尻に似合わない、キョトンとした瞳。
不快じゃないけど。その瞳は私を不機嫌にさせた。
だって、あなた誰?、っていう色をしていたから。
ひどく自分が矮小に思えた。私は一晩彼のことばかり考えていたのに、彼にとってはどうってことない出来事だったみたいだから。
一晩経てば記憶にも残らない小さな存在。
この私が彼には何ら影響を与える存在でないと気づいた。
悔しかった。
そして不思議だった。
彼の目は不快じゃない。
私を苛つかせるけど、不機嫌にさせるけど、不快じゃない。
むしろ心地よい穏やかさだ。
だから欲しいと思った。
ふっと意識が覚醒する。
不快な目は私に何らかの意識が向けられていた。
殺意、欲望、羨望。
侮蔑、妬み、恐怖。
彼はそんな強い感情を私にむけなかった。
フューキの性格はシンプルだ。
特定のモノにはこだわるが、それ以外はどうでもいいと考える。
あのとき私はどうでもいいに分類されていた。
まわりが言うように、私が如何に人目を惹く容姿でも、
悪魔と罵られても、
誰もが欲する巨大な魔力をもっていても、
フューキにとっては無価値だった。今でもフューキはそんなものに価値があると考えていないのだから。あのころは私なんか無価値の固まりにすぎなかった。
だから悔しかった。
私を認めさせたかった。
私自身、私そのもを認めさせたかった。
シュヴァルツ・リーリエ・フォン・エーヴィヒカイト
唯一にして絶対なる力を持つモノ。
それに群がる蟻のような連中、教会や〈死族〉の奴らが鬱陶しかったというのに、
唯一であることがイヤに感じたときすらあったのに、
私を唯一と扱わない人間にあったとき、悔しかった。
そう思った。
本当は違った。
唯一であることは、淋しい、孤独、冷たい、一人、苦しい。
みんなが私を疎外する。
人も、魔も。
私に何らかの価値を見出す。
一目見ただけで私を畏怖する、罵る、貶める、嬌声をあげる、恐怖する、手に入れようとする、殺そうとする。
私は何か価値のある対象物であり、対比されるモノであり、彼らと同じ場所には立っていない。
フューキの世界に私はどこにもいなかった。
あいさつもした。(――それだけでも私にはおおごとだったというのに。)
会話もした。(悪意も敵意もない会話をしたのはおそらく初めてだったのに。)
なぜかジュースなんかもくれたのに。
すべて彼の気まぐれで、おそらくいつもしている気まぐれで、私だから気まぐれを起こしたわけでなく、私である必然性は何らなかったのだ。
彼の世界に私はいない。
それでも、もしその内に入っていけるなら。
すでに私の位置が確立されている世界でない、その場所へ。
ひょっとしたら、彼は気まぐれだから、もしかしたら、その隣りに、立てるかもしれない。
そう夢見た。
一人じゃなくなるかもしれない、苦しくないかもしれない、楽しいかもしれない、心地よいかもしれない、暖かいかもしれない、…………
……淋しくないかもしれない。
……かもしれない、かもしれない、かもしれない……。
そしてそれはかなった。
私はフューキの唯一となった。
それは離れた対象物という意味ではなく、
温もりを与える唯一人の存在として。
そのために、
彼は友人を捨てた。
彼は日常を捨てた。
彼は家族を捨てた。
そして彼は人としての存在を捨てた。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめん……。
捨てるたびに何かが澱のようにたまっていく。
そして、
その手元には私だけが残った。
彼が手をのばす特定のモノとなり、同時に唯一のモノとなった。
彼が捨てるたびに何かもまた積み重なってゆく。
前者は罪悪感、後者は歓喜。
愚者の二律背反。
でも、
「お前は誰?」
隣りに眠るフューキの瞼は開かれ、夜色の瞳が私を見つめている。
「フューキはそんなふうに私を見ない」
男の口が歪む。
「フューキはそんなふうに笑わない」
右の人差し指で頬をなでてくる。
「そんなふうに私に触れない」
心底楽しそうに、声を出さずに笑い、誰だかわからないのか?、と口にする。
「私を不快にさせない」
そして誰かは最後に口を開き、
「久しいな。待っているがいい。もうすぐ私は再び表れる」
彼は瞼を閉じ、再び眠りにつく。
「誰だ貴様は」
私はお前など知らない――。